2018年3月11日日曜日

『小さな声で囁いて』山本英


 付き合って5年になるカップルの熱海旅行を、2時間弱の尺を使ってのんびりと辿る今作は、まさに「観光の映画」だ。なにも主人公たちが観光をしているから、というだけではない。映画を観たり撮ったりすることは、「観光」することとよく似ているなと、この映画を観ながら納得したからそう思った。
観光というのは、独りで、もしくはよく見知った誰かと一緒に、慣れない土地へ赴き、そこで目にするものを楽しむものだろう。名物の料理を食べたり、美術館に行ったりと、ふだんはしないようなことに、いつもより真剣に、興味を持って取り組む。だから、観光とは「特別な時間」だと、私たちは思っている。日常のありふれた時間とは別の時間だと。
この映画は確かにカップルたちの観光を描き、「特別な時間」を映している。しかし僕の目に魅力的に映ったのは、日常的な「普通の時間」のほうだった。この映画が多くの時間を費やしている、登場人物たちの会話のシーンだ。ガチャピンに追いかけられる夢を楽しそうに話す沙良や、ロープウェイの中で怪しいフランス語とイタリア語を話す沙良と遼のシーンは、別に旅行先の熱海とあんまり関係なさそうのに、とても豊かで幸せな時間に思えた。山本監督は、普通の映画では削ぎ落とされてしまうような些細な描写をこの映画では大切にしたい、と言っていた。たいていの映画は、2時間かそこらで物語を語らなければならないから、重要な展開、つまり「特別な時間」をつなぎあわせてできている。けれど、『小さな声で囁いて』では、あえて平凡な「普通の時間」が重ねられていく。
この「普通の時間」は、しかし、映画が登場人物たちのことばに耳を澄ませ、表情やしぐさに目を凝らしていくことで、やがてかけがえのない時間になる。2人が会話し、笑い、手をつなぐような「普通の時間」が、いつしか「特別な時間」となっていることに、そして、それはまぎれもなく熱海を観光するという行為から生まれた結果であることに気づくだろう。普段とは違う場所に身を置き、その土地や、そこでしか会えない人々の声や光景に注意を傾けることで、日常の自分たちの世界が新鮮な輝きをもって再び差し出される。だから、観光は「特別な時間」なのではなく、「普通の時間」の特別さをあらためて認識する時間なのだ。
映画を観るのも、観光と同じだ。知らない土地と知らない人々の映像を、ふだんの生活よりも注意深く観ることで、映画が終われば自分の見慣れた現実が、いかに複雑で、豊かなものであるかを知ることができるかもしれない。他者の存在を認めることで、自分の世界の可能性を知ることができる。映画を観たり、撮ったりするのは、そんな体験ではないだろうか。そのためには、この映画と同じように、人のことばに耳を真摯に傾け、周りの世界をしっかりと見据えるのがいいだろう。
固定カメラでしっかりと人物と風景を捉え、役者たちの自発的なことばのかけあいと仕草を丁寧に撮ったこの映画は、110分という時間をかけて観客に登場人物たちをなじませていくが、彼らの感情を説明したり、関係の変化をわかりやすく示すようなことはしない。監督が言うように、沙良と遼は、それこそ旅行先ですれ違う人々のように、ふと目に入る仕草やことばをもって、私たちに想像の余白を残してくれる。沙良が古い映画館で映写窓から差す光の中に何を見たのか、私たちは知らない。あれだけ険悪な雰囲気だった2人が、どうして次の日にフェリーで2人で楽しそうにしているのか、私たちは知らない。遼や沙良たちは、私たちの与り知らぬ「他者」として世界に存在している。海岸に流れ着く貝殻や、ひっそりとけばけばしく生えている植物たちも含め、世界は自分以外の他者たちで満ちているという当たり前の事実を前に、それを受け止め、関係を築こうとする風通しのよさを感じた。もう少し現実の世界で囁いている小さな声に耳を澄ましてみようと、映画館からの帰りの電車で私は思っていた。