2016年11月5日土曜日

森林の西部劇  『鳥類学者』 ジョアン・ペドロ・ロドリゲス

今年のTIFFはワールドフォーカス部門を中心に6本しか観られなかったが、そのなかでひときわ異彩を放っていたのが『鳥類学者』だった。
ある山奥に川を下って鳥の観察に出かけた鳥類学者が、道にはぐれ、自然に飲み込まれ、奇想天外な冒険をする。
聖アントニオの物語を下敷きにしたというこの映画は、ある人間が自分が何者であるかを自問し、やがて自らの信仰を獲得していくという物語を軸としている。鳥類学者という肩書きと自分の名を確かにもっていた主人公は、深い自然の中で自らを解放し、新たな存在へと生まれ変わっていくのだ。
その初期段階、鳥類学者が自らを規定することをやめて、一つの生物として自然と戯れる描写が、前半は丹念に描かれる。彼はカメラの前で気取ることなく全裸になり、排便をし、セックスをする。そこに一ミリの卑しさもないことに、最初は観客は戸惑うのであるが(特にこの種の表現に慣れていない日本の観客は)、やがて彼らのあっけらかんとした姿がほほえましく思えてくる。
そして、彼はキリストや天狗といった神々と交わることで、自らを聖アントニオと名乗ることになるが、そこがこの映画の到達点ではない。聖アントニオと名乗ったとたんに、彼はナイフで刺されて死んでしまうのだから。この映画の最も爽快な場面はそのあと、何事もなかったかのように生きている鳥類学者が改めて自分の名を名乗り、車が行き交う道路の歩道を歩いていく場面だ。隣には羊飼いの青年が一緒にいて、道路の反対側からは前半パートで出会った中国人二人組の巡礼者が「自分の進む道を見つけたのね!」と呼びかける。鳥類学者、いや何者かはわからないが確かに何者かになった男と、青年は手をつないで、軽やかにスキップしていく。一連の荒唐無稽な展開は、一種の通過儀礼であり、ここで再び主人公は復活を遂げたことが明らかになる。
監督、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス本人が主人公の役で最後の場面に登場していることもこの映画の肝だろう。監督曰く、自分が映画に出ることは好きではないが、ここではあえてチャレンジしたとのこと。それは彼自身が子供の頃にあまり信仰心というものを正直に受け入れられなかったから、とも言っていた。その言葉を聞いてこの映画を考えるとすっきりする。この映画は何もキリスト教の特定の人物を扱った映画ではなく、私たち現代人がいかに自分たちの「信仰」を手に入れることができるか、という問いを自然の中で描いたアクション映画に近い。そう思うと、監督がこの映画は西部劇だと何度も言っていたのも頷ける。

2016年10月22日土曜日

好きと嫌いは裏返し 『黄金時代』 ルイス・ブニュエル 

ブニュエルという人は、つくづく意地悪な人だと思う。もちろんいい意味でだ。
彼の映画がシュールで掴みどころのないことは、もちろん承知している。だから、僕たち観客はそこに何らかのメッセージのような、裏の意味のようなものを読み取ろうとしてしまう。ほんとうはそんなこと気にせず映画を楽しみたいところなんだけど、どうしても気になってしまうからしょうがない。それで、何となく分かった!と思いかけたとき、また変な、僕たちを裏切るようなショットがひょいっと現れる。僕たちは途方にくれる。その繰り返し。きっと、ブニュエルは、まじめに画面を睨んでいる僕たちを、くすくす笑いながら観ているに違いない。

右翼がスクリーンに向けて爆弾を投げたらしい、この『黄金時代』もそんなブニュエルの奇怪な映画だ。現代の僕が観ていても、この映画大丈夫なんだろうか、と心底心配になったのだから、当時の反響はすさまじいものだったろう。
子供を撃ち、老人を蹴飛ばし、障害者をいたぶり、聖職者を窓から放り投げる。その過剰なまでの掟破りへの執着は、人間の底知れない感情の激しさを僕たちに刻み付ける。宗教的な側面が注目されがちだけど、僕は男女が愛情を確かめ合うシーンにブニュエルの確かな演出力を実感したし、彼のやりたいことは、単なキリスト教批判などではなく、もっと先の、人間という生き物を露骨に描くことにあるのではないかと思った。常識的な観念、固定的なイメージから開放された、本来の人間の姿。ブニュエルは分け隔てなく人間をあつかっている。そこには、聖職者も、ブルジョアも、子供も、大人も区別されない。ある生き物としての、宇宙人が僕たちを分類するような、人間の姿がある。
その姿は、醜くもあり愛しくもある。ブニュエルの宗教への思いは、単なる嫌悪だけではなく、愛情でもあるだろう。あそこまで描けるのは、好きの裏返しだからだと僕は思うのだ。