2019年1月18日金曜日

『マダガスカル』(1994)フェルナンド・ペレス

夢をみることができない。というより、どこまでもリアルな「現実らしい」夢しかみることができない。大学教授のラウラは映画の冒頭で医者にそう語る。彼女は不眠症ではない。確かに寝ているし、夢もみている。でも、その夢がどこまでたっても日常的でしかないことに苦しんでいる。ラウラの娘は母親とは反対に、現実をまったく忘れて空想の世界へと逃避している。彼女が目指すのは「マダガスカル」と呼ばれる楽園だ。幻想的な娘の世界と、現実的な母親の世界とは交わらない。しかし、両者が「夢をみている」ということは同じだ。

夢をみているのに、夢じゃない。この矛盾した状況は、当時のキューバが置かれた状況にぴたりと当てはまる。90年代初頭のソ連崩壊に伴い、キューバはかつて経験したことのない物資不足、経済危機に陥った。フィデルら革命の指導者たちは、この苦境を乗り切るために、それまで禁止していた外貨の保有や個人商店の解禁を行った。彼らはこの時代を「平和時の非常時」と名づけた。この呼び方自体に矛盾が満ちていることはすぐにわかるだろう。平和なのに非常ってどういうことだよと思う。これは、どんな状況でも夢をみつづけろという命令だ。この場合、夢とは革命のことである。共産主義の敗北がほぼ決定的になっても、いくら現実の生活が苦しくても、革命の理想は忘れるなよ、と言っている。

『マダガスカル』はそうした矛盾に囚われた時代の空気をリアルに、かつ幻想的に映している。青を基調とした冷たい色彩が画面全体をくまなく覆っていて、登場人物たちはボソボソとしゃべり、ほとんど影のように存在感がない。主人公たちが感じる苦しさや孤独が街の風景に投影されているわけだが、照明の当て方や構図などははかなり大胆で、私たちの抱く明るく楽しいハバナのイメージを、あっというまにディストピアのそれへと変えてしまう。ここまで暗く憂鬱なハバナをみたのははじめてで、けっこう衝撃的だった。『低開発の記憶』のように記憶と戯れ、夢の残滓を懐かしむ余地すら、ここには残されていない。悪夢と言ってしまえば簡単なのだが、そんな生易しいものでもない。悪夢と日常が限りなく結びついて境目の消えてしまった世界とでも言えばいいのだろうか。

一見すると幻想的でしかないようなこの映画がどうしてもリアルだといえるのは、ふと差し込まれる、強烈な身体の感覚を伴う瞬間がいくつかあるからだ。たとえば、楽しそうに過去を回想しながら、思い出話を娘に聞かせるラウラがそうだ。娘はまったく関心がなさそうで、それとは対照的にラウラは思い出に浸りたいかのように熱心に話す。話しすぎて料理の途中だったチキンを焦がしてしまう。ラウラは熱した鍋に触れ、熱さで手をひっこめ、鍋を流しに放り込む。彼女が決して夢をみれないことが、身体の動きの連鎖で伝わってくる。または、娘が絵画をみて、恍惚と涙を流すシーン。これを機に娘はこれまでの夢想状態から抜け出していくことになる。

夢から醒めるとか、現実から逃れるとか、そんなわかりやすい夢と現実の関係ではもはやキューバを語れないことをこの映画は突きつけたのだと思う。互いがどこまでも接近し、表裏一体となった世界を生きるには、どうしたらいいのだろう。夢が醒めてしまったことは誰でも知ってるのに、どうすればその中で生きていけるのだろう。僕にはまだわからない。でも、この映画の夢と現実の奇妙な交差とすれ違い、そこで親子が経験するさまざまな痛み、そして希望を、覚えておくことがまずは必要なのだと思う。そう、希望こそが、フェルナンド・ペレスが決して諦めないものだ。悪夢のような日常のなかで、必死に生きる人々がいる。その人々がふと見せる、まばゆい輝きこそが、夢も現実も越えて、我々を撃つのだ。