2017年4月12日水曜日

流れゆく時間、歓迎すべき未来

ミア・ハンセン=ラブ『未来よ こんにちは』(2016年/フランス・ドイツ)


シャトーブリアンの墓の手前、黒みがかった海へ『未来』と原題が表れる冒頭に不吉な違和感を覚えつつ、映画は始まる。イサベル・ユペール演じる高校の哲学教師は、同じく教師の夫と2人の子どもを持ち、痴呆気味の母親の世話に忙しそうながらも、充実した生活を送っているようだ。きっぱりとして、そして誠実に授業を進める彼女の姿は凛々しく、たくましい。教科書の出版社の営業担当に、自らの教科書の売れ行きの悪さから改訂を求められても、安易に自分の意見を曲げない。かっこいい女の人だなと惚れ惚れする。
 
しかし、彼女の順調そうな人生はあっさりと、劇的に変化を要請される。まず、夫からの突然の別れ。観客は前のシーンで彼の秘密を共有しているからいいものの、彼の伝え方はとてもぶっきらぼうで、突然だ。そして、母親の死。世話を焼く場面に比べて、彼女が亡くなるシーンは省略され、気つけば葬儀が行われている。

おもしろいのは、この二つの重大な変化を、映画がまるで普通に、あっけなく描写していることだ。ユペールの怒りや悲しみを追いかけるようなことはせず、ただ短いシーンをつないで時間を過ぎさせていく。このあたりから、映画の流れは一気に早くなる。それぞれのカットは的確に彼女の表情や動作を捉えてはいるが、それを観客に熟考させる暇を与えない。流れが止まらなくなる。

ユペールはその流れを、自ら急ぎ足で進んでいく。僕ら観客は、彼女に置いていかれないように、ついていく。その中で、ふっと彼女が見せる笑顔や涙に、はっとする。流れの最中だからこそ、一瞬がより光って見えるのだ。この一瞬を演出する監督も、そしてユペールもすごい。生きるということは決して止まってはいられないものであること、その中でいかに純なる精神を抽出するかを彼らは何よりも大切にしている。

この映画は残酷だ。過ぎ行くものをそのまま映すのだから。でも、それだけではなく、新たな生や時間の到来を歓迎さえしている。出産後のベットで娘が嗚咽するシーンは、とくに悲しいし、やりきれない。でも、その後につづく赤ん坊を優しく抱き、唄うユペールの穏やかな表情をみれば、確実に来る未来を生きてみたいと誰しも思うはずだ。