2019年12月9日月曜日

サンティアゴ・アルバレス『今!』(1964)


 もう何十回と見ている作品。レナ・ホーンの歌の歌詞もわかってるし、だいたいどんな写真がそれに合わせてコラージュされるかもわかってるんだけど、それでも見るたびにパワーをもらう。この映画にはアルバレス映画の真髄が凝縮していると思う。写真の操り方は、この映画でだいたい完成している。アニメーション的に、静止した写真を組み合わせて動きを引き出したり、ぐぐっとズームして一枚の写真のなかでフレーミングを重ねて物語をつくりだしてしまう。たぶんアルバレスはこの映画で新しい映像とか素材はなにも使ってない。既存の他人の素材を自らのアジテーションに転化させるその大胆さがすごいし、それでもそこに映っている人々の声を捻じ曲げたり搾取したりはしないのがいい。米国の権力者たちは徹底して対象化して弄ぶけど、弾圧される黒人たちの声(写真だから聞こえない)はレナ・ホーンの歌声にかき消されることがなく、彼女とともに共鳴してさらに増幅する。

 怒りや憎しみ、希望といったいろんな感情がごちゃまぜになったインパクトを、この映画からはもろに受ける。それはアルバレスの感情であり、レナ・ホーンの感情であり、名も知れない黒人たちの感情であり、また彼らに連帯する無数の者たちの感情である。そうやってこの映画の情動はどんどん伝染して、大きくなる。歌詞には「この歌のメッセージはとことん明快」とあって、確かにそうなんだけど、それでもこの映画がいつも新鮮なのは、無数の人々の情動が不定形のままでうずまいているからだと思う。プロパガンダ的な固定された情報としての明快さではなくて、時代や国を飛び越えて変化していく感情の源がある。黒人たちの闘いは今もぜんぜん終わらないし、彼らと同じ気持ちを抱いた人たちの闘いが続くかぎり、この映画はこれからもずっと新しいままだろう。いつだって彼らといっしょに「NOW!」と叫んで闘いをはじめられる。

2019年12月7日土曜日

「生誕100年記念 サンティアゴ・アルバレス特集」『ハリケーン』(1963)

2019年12月11日~14日にアテネ・フランセ文化センターで「生誕100年記念 サンティアゴ・アルバレス特集」が開催される。14日にはシンポジウムもあるので、その準備として、各作品についてここで覚書のようなものを残しておきたい。年代順に書いていく。

『ハリケーン』(1963)
 アルバレスを世界的に有名にした最初の作品。巨大ハリケーン「フローラ」がキューバを襲う過程を20分ばかりでまとめている。ICAICやニュース班を中心に、たくさんのカメラマンがクレジットされていて、各々の撮った膨大な量の映像が組み合わされてて、それをこの尺にまとめあげた編集のうまさが際立つ。編集しているのはマリオ・ゴンサレスという人。1カットごとの長さとか、つなぎとかがとてもスムーズであり、情報を的確に伝えている。あと、機械のがたがたと作動する音や、作物をザルにかけるときのザーとした音、そして人々の歩みや船や車の移動などが組み合わさってとてもリズミカルな映画になっている。そんな映画前半は軽快な音楽にのせてキューバの農業の様子が映されるのだが、その滑らかな流れは突然フリーズした画面と、無音の沈黙によって遮られ、そこからフローラの襲来がはじまる。

 フローラがやってきてからは、水の音と、風の音が強く鳴っていて、音楽もドラムを中心にして不穏な雰囲気のものになる。被害にあった住民たちを救出に行くときのヘリの音も強く印象に残る。映画の大半はこのハリケーンの被害と、それに苦しむ人たちの様子、彼らの救出作戦が描かれるのだけれど、主要な被写体となるような特定の人物はおらず、あくまで人々は集団的なものとして示される。中心となりそうな人や、英雄的活躍をする人もいない。フィデル・カストロも映るのだけれど、ちらっと出てくるだけで、ことさらにその活躍を強調したりはしていない。

 むしろ主役となるのは、カメラのほうをじっと見つめる無数のキューバ人たちだろう。彼らのまなざしは深く、忘れがたいものがある。集団的ではあるんだけど、それで個人の特徴が消し去られるということでもなく、それぞれのショットに映る人々は皆固有の表情や動作を示している。人間や動物の死体などショッキングなシーンもけっこうあり、ハリケーンの恐ろしさをまじまじと伝えるのだが、そうした困難に立ち向かう人々の強さや苦しみを、ナレーションに託して語らせてしまうのではなく、映像と音のリズムで描ききったことがこの映画のすごさだと思う。とくに最後の幼い子供のじっと見つめる視線は、固定的なメッセージをこえて、不安で移り気な目で革命をじっと見守るような、優しさと強さと希望と不安がいろいろ混ざったような複雑なものだった。