2021年6月7日月曜日

石田智哉『へんしんっ!』(オープン上映)を観て

 少し前に石田智哉監督『へんしんっ!』の試写会に行った。普段はめったに試写状なんてもらわないからこういう機会は嬉しい。『へんしんっ!』は、電動車椅子を使って生活する石田監督自身が「障害者の表現活動」について知ろうと、様々な人々と出会っていく映画だ。この作品は試写会でも6月からの映画館での公開でも、映画本編に日本語字幕と音声ガイドが付く「オープン上映」という形式をとる。従来の映画だと「バリアフリー上映」として限定的に行われてきた形式を、同じ空間で観客全員がひとしく体験することになる。私はこの作品自体はすでに昨年のPFFで見ていたけれど、それが「オープン上映」によってどのような鑑賞体験へ変わるのか気になっていた。結果として映画が終わったあとに感じたのは、これはまったく新しい映画経験かもしれないということだった。この「オープン上映」について、会場でもらった資料には「石田智哉監督が探求したものを表現するため」と説明がある。作品内容については同じ資料に伊藤亜紗や想田和弘による充実したレビューが載っていたので、ここではひとりの観客としてこの上映を体験して感じたことを綴ってみたい。まとまりがなくてうろおぼえのところもあるがそのあたりはごめんなさい。

 まず、映画冒頭で配給会社である東風のロゴが出て、その説明が音声ガイドで流れたときから、おおっとなった。ほんとによく覚えていないのだが「銀色の文字が風で〜」みたいにロゴの動きまで詳細に述べていて、臨場感というか、たしかにこういうロゴだったなと、これまで何度も見てきたロゴのあり方をはじめて意識した。このように、『へんしんっ!』では人物や物の配置や動作などの視覚的な情報は音声ガイドによって捕捉され、作品内の音声情報(人々の会話や環境音)については日本語字幕が投影される。
 健常者といえる私にとって、字幕と音声ガイドがつねにある状態は、情報が溢れていて大変だなと最初は思った。字幕は慣れればそこまで気にならないかもしれないが、会話の合間を縫うように入ってくる音声ガイドは詳細な説明を映像に対して加えているので、気にならないといえば嘘になる。一般的にドキュメンタリーでは、セリフやナレーションですべてを説明してしまう作品はあまり評価されず、あいまいで多様な意味をもつ現実をできるだけ、その複雑性をそのまま映像や音響で示し、観客に想像の余地を残すほうがよしとされていると思うが、その物差しをあてはめるとこの上映はあまり評価されないだろう。
 けれど、そうした評価基準はひとつの健常者よりの目線にすぎないと思った。映画を見て感じたことを書いたり、その作品を評価するとき、しらずしらずのうちに私はある一定の観客の身体を前提とし規範にしているのだと、この上映の途中で気づいた。映画を受容する人々のなかには、視覚障害や聴覚障害をもっている人もいる。その人たちにとっての映画体験は私のそれとは当然ちがってくるだろう。というより、あたりまえだが、私ではない身体をもったあらゆる観客の体験は私の体験とは異なるだろう。映画史や映画理論を少しでもかじれば、観客は普遍的なひとまとまりの属性にまとめられるのではなく、様々な出自や身体、アイデンティティをもった存在だとわかるのに、障害を持つ観客についてはこれまで全然意識してこなかった。
 『へんしんっ!』の作品テーマは、個々人の身体のちがいに気づきながら、その接点を探ることだと思うが、その実践は鑑賞のレベルでも目指されているのではないか。そう思ってから、『へんしんっ!』のオープン上映は私にとって、私とはちがう身体をもった人々の映画体験を想像しうるものとして働きはじめた。すぐれた野球の実況中継のように的確な音声ガイドのリズムにのって製作陣の焦点をうかがいながら、映像と音声、字幕の関係(映像の単なる答え合わせの字幕や音声ではなく、ずれているところもあって面白い)を気にして映画を楽しむこともできるが、それ以上に、このシーンをなるべく聴覚だけで感じたらどうだろう、視覚だけで捉えたらどうだろう、というふうにいろいろな受容を想像し、体験できるのが新鮮だった。製作者や出演者にとってこの映画のなかでの体験は人それぞれちがっただろうし、観客にとってもこの映画の受け取り方は様々であると思う。そのことを意識することで、いま見てる映像や聞こえる音が少しちがうようにして体に入ってくる。もちろん、作中で美月さんが述べるような鋭敏に「見る」感覚は私には備わっていないが、それでもなんとか想像だけはしてみたくなる。このように、自分とは違う身体をうっすらと自分の身体のうえに重ねて映画を観るという体験ははじめてだった。そういった見方をすることで、映画の終盤のダンスで美月さんが身体を持ち上げられたときに発する「うわっ」という声や表情に宿るよろこばしい触覚の手触りもなんとなくわかるような気がした。
 ここまでいろいろ書いているが、やはり「障害をもっている人」というくくりでカテゴライズして、とある鑑賞体験をまとめてしまうことは乱暴だろう。ナレーションで全部説明されればよいと思わない人もいるだろうし、これを機会にできるだけたくさんの方の映画の見方・聞き方を知りたいと思った。

 最後に少し映画の内容に触れると、この映画は新しいかたちのセルフドキュメンタリーであるように思った。原一男みたいに確固とした社会に対抗する確固たる自分という問題意識でも、近年のセルフドキュメンタリーにみられるあやふやな自己から出発してたしかな何かを探求するといった仕方でもこの映画はくくれない。作中で徐々に石田監督という「個」はたしかに立ち上がっていくのだが、それはつねに、すでに石田監督のまわりにある、または映画製作を通じて出会っていく複数の他者の存在を介して、つまり他人を知ることで自分を知るというたえざる往還においてなされている。現実社会に「私」という個人で対峙するのではなく、もうひとつの即興的かつゆるやかな社会=共同体を立ち上げているともいえる。そして、その過程が映画製作の根幹にあることで、映画という制度のなかにある協働のあり方も自己反省的に問い直していると思った。「個にこもらず、でも他人に寄り添いすぎず」という砂連尾さんの言葉のように、完全な自立か他者への従属かという二項対立とはちがうところで、自分という存在を取り巻き構成している人々・物(この映画における車椅子や杖の存在を考えてみることも面白そう)の存在を知り、それを自らの理解へと織り込むことで各々が主体を形成していくこと。私たちが生きたり映画を撮る上で依って立ついろいろなかたちの依存関係を、複数の身体のレイヤーを透かせて知覚し、露呈させること。熊谷晋一郎は「自立とは依存先を増やすこと」と言っていたと思うが、その意味で本作は真にインディペンデントなセルフドキュメンタリーだと思う。