2018年9月15日土曜日

『きみの鳥はうたえる』三宅唄

「1、2、3、4・・・」と「僕」はカウントする。すれ違った佐知子に腕を触られ、そこに何かを感じ取った彼は「賭け」にでるのだ。彼女が戻ってくるまで120秒待ってみようと。映画は「僕」が120秒待つのをすべては映さない。30秒くらい数えてカットが変わって、次のカットでは116秒くらいになっている。観客が実際に過ごす時間としては、1分にも満たないはず。すべての時間を共有できないことを知らされながら、それでも、佐知子がとびっきりの素晴らしい表情で戻ってきたとき、ぼくはそこにとてつもない「時間」の堆積を、映画にときたま焼き付けられる永遠をみた。

『きみの鳥はうたえる』で流れる時間のほとんどは、だらだらしている時間だ。「僕」と静雄と佐知子がコンビニで買い物したり、家で飲んだり、クラブで踊ったり。そういう時間がけっこう長めに撮られているので、普段友達とオールで飲んでるときみたいな安心感がある。でも、これは映画なのでいつかこの時間に終わりがくることは分かってるし、3人の関係がはじめから全然安定したものじゃないことも分かってる。だから、よけいにだらだらした時間が愛おしいし。そこからはみ出で彼らが生きてるはずの時間も全部愛おしい。

はじめて2人で出かけたときに静雄が佐知子の服を触るとき、なんでもないふうに「僕」が佐知子をキャンプに送るとき、そのあと佐知子とふたりになったときに静雄が歯を磨くとき。いろんな個人的決定的瞬間がそのひとには訪れてる。映画になってない彼らの時間にも、または彼ら以外の人々にそんな瞬間が常に訪れていることも、映画はさらりと示してくれる。夜明けの函館、薄明かりの時間は誰にでも親密だ。

「夜の人々」のひとり、「僕」は、住み慣れた夜ではなく、昼に再びカウントする。映画の最初にあったウキウキはない。絶望的なカウント。でも、彼は数えて、最初のときのぼくたち観客みたいに途中ですっとばかして、彼女のもとへむかう。そこで映る彼女の顔は、やっぱりどころでなく、こちらの想像をはるかに越えて輝いている。時間を飛び越えること、時間と時間のあいだにある暗闇を引き受けながらも進んでいくこと。「終わり」を前にひるむでも、センチメンタルになるでもなく、自分だけの相手との時間を自ら刻んでいくこと。

2018年9月13日木曜日

『寝ても覚めても』濱口竜介

朝子は何を考えているのだろう。と映画を観ながらずっと考えていた。冒頭の麦との出会いから始まって、彼女の行動はかなり突飛で、ありえないように思える。火花が散って、スローモーションになる、いかにもドラマチックな演出があるけれど、そんなことで好きになっていいのか?と思う。そんな観客の不安をよそに、岡崎の「んなわけあるかーい!」という鋭いツッコミに対してニコニコと笑っている朝子と麦は、自分たちの共通点である突飛さ、ありえなさを共有し、楽しんでいるようにみえる。朝子と麦はよく似ている。だから、麦のパートで朝子が「好き」と言うとき、そこには一点の曇りもなく、ただ幸せそうな彼女の表情がある。バイクで転倒するという死んでもおかしくない状況でも、彼らは二人だけの世界にいるように仲むつましく抱きあい、キスをする。ありえない、非日常的な雰囲気でつながっている2人。でも、そんなありえない幸せは、「麦は靴を買いに行って、そのまま帰ってこなかった」というありえない理由によって突然終わる。麦との時間は非日常から始まって、非日常で終わる。

東京に行って亮平のパートがはじまると、朝子はより慎重になっている。もちろん以前の恋人とまったく同じ顔をした男が目の前に現れたせいで、動揺するのも当然である。亮平を見る目は、麦を見る目とは違って、より平坦で感情が消されている。彼女は亮平からの好意を受け取るも、すぐに突き放してしまう。しかし、大地震のあと、街で再開した二人は抱き合って、お互いを受け入れる。亮平は麦と違って、かなり日常的な、気遣いのできる男性として描かれるのだけれど、その亮平と朝子が抱き合うのが、大地震の夜という、非日常そのものの場面であることに、麦のパートとの反復を見て、わたしは少し怖くなる。

そんな不安はつかの間で、それから5年の月日が一瞬で経つ。朝子と亮平の付き合いは順調に続いていて、ふたりの距離感は親密だ。でも、5年前、東京に来たときの朝子の慎重さは引き継がれている。亮平のことを「好き」というとき、その言い方は麦のときとはちがって、言葉の意味を噛み締めるように、自分の感情を確かめるような感触がある。朝子は自分の感情を、または相手との関係をそのままに了解することは避けているようだ。亮平の足をマッサージしながら「好き」と言うとき、ボランティアに行く理由を聞かれて真面目な顔で「間違いでないことをしたい」と言うとき、朝子は自分の行いと感情に正しさと安定を求め、自分自身に言い聞かせている。朝子をみている我々観客は、そうした努力によって彼女がやっと日常を手に入れたと思い込む。

朝子が、再び目の前に現れた麦の手をとって毅然と歩みだしたとき、わたしたちは驚くとともに、それを必然の行為と捉えてしまう。自分の気持ちを逐一確かめる朝子が、自ら選んだ行為であり、基本的に朝子は非日常の人間であることを知っているからだ。これまでの時間が消失し、寝ているのか覚めているのかわからない状態にわれわれは陥る。車のなかから外を見る朝子の顔は、大阪で亮平といたときのようにぼんやりと恍惚としている。朝子は「自分はまったく変わっていなかった」と言う。この時点でも彼女はまだ、過去と現在を、麦と亮平を区別していて、自分は過去のままであると断ずる。

しかし、朝子は目を覚ます(または夢に戻る?)。東京でもない、大阪でもない、彼女と亮平が自らの意志で訪れてきた仙台の地に着いたとき、彼女は昔の自分があって今の自分があること、麦があって亮平と出会えたこと(これは前に亮平からやさしく言われたことでもあるが)を了解する。過去と現在、麦と亮平、前の朝子と今の朝子は別々のものではなくて、つながっていて一方があるから他方があるような関係だ。その上で、彼女は亮平のもとに戻りたい気持ちになる。自分のそのときだけの感情に従うのではない。「とりかえしのつかない」様々な出来事があってもなお、麦に、世界に、そして自分にも裏切られたということを理解してもなお、それでも今の自分を信じるという並大抵ではない決意をして亮平のもとへ向かう。くじけそうになるが、岡崎の母の「大事なんやったら、大事にすればええやん。どうせそれしかできひんのやから」という言葉が、再び彼女の今を信じさせる。

そうして戻ってきた彼女を亮平は激しく拒否しながらも、受け入れる。「ずっとこうなるんじゃないかと思ってた」と彼は言う。亮平も怖かったのだ。朝子を好きになってしまったとき、この生活がいつか崩れることを彼は予測していた。それでも、彼は朝子と一緒にいた。

日常と非日常の境なんてあるのだろうか。わたしたちの感情や世界というのは、常に移り気で、不安定で、でもそれを様々に努力して、配慮して、日常をつくったように思っている。亮平との5年間は朝子にとってそんな時間だった。もうあの空白の5年間をただの穏やかな日常としては想像できない。朝子と麦、そして串橋やマヤ、春代、岡崎ら、この映画に出てくる人々の何気ない生活のなかの葛藤や闘いが、やっと想像できるようになる。

そして、今、2人は並び立って淀川の支流をみている。朝子と麦と出会った川から分岐した小川を前にして、亮平は「汚い」と言い、朝子は「でも、きれい」と言う。この「でも」が大事だ。「汚い」のも正しくて、でも「きれい」なのである。そんな真逆の見方を両立させ、共存させようと、朝子はしている。そんな彼女を不審な目で見るも、亮平は再び前を向く。彼らがこのときをこの場所を同じくして、同じ方向を見ていることがなによりも感動的だ。こちらをまっすぐに向いた二人の顔には、彼らがこれまで生きてきた感情や出来事の痕跡が、今の彼らの決意とともに、くっきりと映っている。これまで映画のなかであったすべてのことが、2人の顔をつくっているとしか思えないような、複雑で、でも美しい顔がそこにある。彼らは似ているようで、まったく違う人にも見える。それはあの牛腸の写真にいた双子のようだ。相手を慮りながら、同時に自分の存在も確立させ、両者を共存させていくこと。この先彼らが幸せに暮それらす保障なんてどこにもない。でも、それでもわたしは今の彼らを信じられると思った。