2022年10月15日土曜日

うずうずチリ・サンティアゴ生活記⑤:バルディビア映画祭、山﨑樹一郎『やまぶき』、カルラ・シモン『アルカラス』

  サンティアゴからバスで10時間ほど南に行ったところにあるバルディビアという街の映画祭に参加している。きれいな川と深い緑、あとおいしい地ビールが有名な美しい街で、ここで住めたら素敵だろう。ビールはなにを頼めばよくわからないからおすすめをききつつかたっぱしから飲んでいるけど、どこでどれを飲んでもおいしい。バルディビア映画祭は今年で29年目で、それぞれの会場のスクリーンも大きく音もよく、プログラムも独自の視点で世界中の個性的な作品が集められている。オペレーションもスムーズでこういう映画祭が日本にも増えたらいいのに。

 オープニングセレモニーでは、バレリア・サルミエントが人民連合時代に撮って以来失われたと思われていた『色とりどりの夢』(Un sueño como de colores)が上映されて感激した。サンティアゴのストリッパーを記録したこの映画は、冒頭のカラー映像やタイトル画面から華やかで、他の革命映画とは一線を画しており、彼女たちの窮状を訴えながらも誇らしい仕事として見事に映画にしている。

 他にもメキシコのフェミニズム映画コレクティブの映画や、ラテンアメリカの短編映画コンペ、アルゼンチンのAna Poliakの特集など見ているけど、どれも水準の高い作品たちと確固とした視点の特集で、おもしろい。フェルナンド・ソラナスとも仕事をしてきたPoliakの『¡Que vivan los crotos!』は、鉄道が中心の美しいショットと証言の組み合わせがすばらしいドキュメンタリー。

 日本からは山﨑樹一郎『やまぶき』がヤングシネマ部門に入っている。バルディビアで真庭が舞台の映画を見られる!と思って映画館に行ったら、地元の中学生くらいの子たちを中心にシネコンの劇場がほぼ満席だった。
 16mmで撮られている『やまぶき』は、冒頭の採石場のザラザラした荒涼なイメージからはじまっていつのどこの映画だろうと迷うような雰囲気がずっとある。借金を背負って韓国から真庭にきた主人公をはじめ、ベトナム人労働者や、街中でのデモなど昨今の社会をいろいろ取り込んだふうにもとれるが、たやすく区分けできる善人も悪人もいないこの映画では、あからさまなメッセージや杓子定規な多様性を押し出す前のところで、彼らの生活感が群像的に重ねられていく。監督がここで生活しているということもあるのだろうが、映画が全体的に重いというか、根をはっているよう。役者もみなさんいい。
 映画全体が思っていたよりもずっと凸凹してるなと思ったのは、ジャンル映画っぽい荒唐無稽な展開と、鈴木清順みたいな夢幻的時空が、上に書いたような社会性と組み合わされるからだろうか。編集のテンポも前半と後半でちがうような気がする。けどイヤらしいかんじはせず、世界を個人のなかに折りたたむか、個人から世界を広げるために必要な表現だった。
 黒住尚生が祷キララにむけてサイレント・スタンディングの現場で掲げる「君のことが好きなんだ」(みたいなことを書いてた)矢印ボードが好きだった。会場で一番笑いが起きていたシーンであるけど、他の参加者が持ってる「9条守れ」などの文言と並んでても全然おかしくないし、いやそもそもこういうことを伝えたくてデモとかやるんだよなというのをシンプルに見た。矢印の向きがくるくる変わるのも良かった。
 あとは祷キララの「わからん」。この映画の大人、とくに男たちはよく泣き、ためになりそうだけど少し説教っぽいことを言うのだが、それらにまったくひるまず彼女が放つ一言がすがすがしい。

 あとたぶん日本でやるだろうけどどうしても見たくて見たのは、カルラ・シモンの『アルカラス』。去年のベルリン映画祭で金熊賞をとっている。前作『悲しみに、こんにちは』(どうしてこんな邦題なのか…)がよかったから楽しみにしていた。
 今回もやはり彼女の故郷のカタルーニャの農村を舞台に、農園を営む家族と、彼らの土地の危機が描かれる。カルラ・シモンの映画がすごいのは、子供たちの遊びの場面をふくめて、家族の日々の生活のシーンを、生々しい感覚(触感とか匂いとかに地域性がある)と儚さをもってカメラが捉えていることにある。いわゆる自然さとかリアリティとはちょっとちがう気もする。前作よりも今回はより大きな家族を描いているので難しかったと思うのだが、たとえば家族の食卓のシーンやベットの上でだらだらするシーンにみちているなにかは、郷愁とかをこえて、別にそんなに似てない人生を辿ってきたどこかの観客にも、そういった大切な瞬間がたしかにあるし私はそれを知っていると思わせるような力がある。それでいてこの映画のラストは社会の現実を見せつけられるもので悲しくもある。
 『やまぶき』と一緒で、こういったローカルな要素を突き詰めて時間をかけて作られた映画は見た後も当分残るものがあるし、これらの映画があちこちの映画祭でかかっているのは、そうした映画をみんな望んでいるからなのかな、などどバルディビアで考えていた。

2022年10月5日水曜日

うずうずチリ・サンティアゴ生活記④ チリのサーカス、『空が赤い』

  9月17日から23日まで。
 9月18日はチリの独立記念日で、前後4日間ほど休みになる。年末年始と同じか、それ以上に大きなお祝いの期間で、みんな楽しそう。家族で旅行に行ったり、家でパーティーをする人が多いけど、私はとくにすることがなく、17日にオイギンス公園で開催されていたフェリア(お祭り)にひとりで行った。
 公園のなかでは巨大なステージでライブがあったり、たくさんの屋台が出ていたが、私の目当てはサーカス。一度でいいからこちらのサーカスを見たいと思っていたので、これを目指して公園に行くと、当日券を求める人で超大行列ができていた。予約しておいてよかった。
 サーカスはシンプルだった。ライオンとかバイクとか空中ブランコのような大がかりなものはないけど、進行役のピエロのような人がうまく笑いを誘いながら、男女が次々技を披露する。ときどき失敗していたのも微笑ましい。入場のときは庶民的な少しボロい服で出てきた彼らが、裏できらびやかな服に着替えてからステージに出て観客を魅了し、退場するときはまた庶民の格好に戻って、客席に手を振りながら帰っていく。オルガンの音が響いていてどこか切ない。ホドロフスキーの映画を思い出した。という話を後日知り合いのチリ人にしたら、『サンタ・サングレ』の主役、アクセル・ホドロフスキー(監督の息子)が今年9月15日に亡くなったと知らされる。ホドロフスキーの映画のなかで『サンタ・サングレ』はけして嫌いになれない作品だった。
 サーカスの途中で写真を撮ろうと携帯を構えたとき、自分がまわりから浮いているなと意識した。カメラによって自分だけその場から離れている感覚。ちょっと居心地が悪いのは撮ることに慣れていないからだろうか。大勢の人が一体となっているデモなどを撮るときも、こういう疎外感はあるのだろうか。

 最近見た映画でいいなと思ったのは、チリの若手監督Francina Carbonellのデビュー作である『空が赤い』(El cielo está rojo)。2010年にチリの刑務所でおこり多数の死傷者を出した火事について、刑務所のなかの映像や裁判記録文書、監視カメラの映像など様々なアーカイブ素材を組みあわせながら再構成していく。この火事が単なる火事ではなく、どれほど歪な社会構造によっておこされた事件であるかを、人の痛みに触れながら、かといってそれを見世物的に晒すことなく、構造に回収させてしまうのでなく、つねにそこにあった恐怖とひとりひとりの生命と対話しながら映像にしていく過程がよい。完成まで相当な時間をかけたらしいが、これがデビュー作かと驚くほど重厚な作品だった。前に山形国際ドキュメンタリー映画祭で賞をとったチリの映画『十字架』もそうであるけど、冷たい記録的なアーカイブ素材からどのように映画をひきだしてくるかについて、チリのドキュメンタリーは相当進んでいる。乱暴にまとめてしまうが、私が見てきた日本のドキュメンタリーはセルフ・ドキュメンタリー、またはシネマ・ヴェリテ的な臨場感や素朴さに軸を置いている作品が多すぎて、綿密な調査をもとにした、ある種フィクション的な強い構成・語りをもったドキュメンタリーが少ない気がする。テロップの出し方や被写体との距離、音と映像の分離・接合など、ドキュメンタリーの手法はこちらではかなり多様なので、学んできたいと思う。