2017年5月17日水曜日

醒めた夢、これからみる夢

デイミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』(2016年、アメリカ合衆国)

なめらかに動き回るカメラが次々とフレーミングを重ね、ダンサーをワンショットで映す圧巻のファーストシーン。観客を一瞬で夢の世界へと引き込む強烈な映像だ。とてつもなく技巧的。『バードマン』から決定的に流行しはじめた長回しと、ミュージカルというハリウッドの伝家の宝刀を組み合わせた、監督渾身のシーンだろう。デイミアン・チャゼルの形式へのこだわりはまだまだ終らない。鈴木清順に倣った色づかいに、映像の切れ目を感じさせない流れるような編集。素晴らしい。文句のつけようがない。

しかし、徐々に疑問がふつふつと湧いてくる。あまりにもできすぎているのだ。フォーマルな画づくりに走りすぎた結果、映画は「つくりもの」であることを次第に強く意識させるようになる。だから、売りであるはずのミュージカルシーンもあまり乗れない。盛り上がる2人と徐々に距離を感じ、つらくなってくる。よく聞けば歌詞もたいしたこと言ってないじゃないか。ハリウッドで夢を追う、という王道中の王道を進む二人に、ハリウッドが死のうとしている現代を生きる僕はあまり共感できない。

しかし、ミアがオーディションシーンで歌い始めたときから、何かが変わりはじめる。唄い始めたら周りが暗くなって、彼女にスポットが当たるというベタな演出も、気づけばミアの心情とシンクロして心にせまってくる。つくりもののような世界は確かに2人の住む夢であり、彼らが生きたいと願うのは、そのハリウッドの夢という幻想なのだということが、急に実感として沸いてくる。序盤から積み重ねられたあざといほどのテクニックは、彼らが目指す夢の美しさと儚さを構成するためになくてはならなかったのだ。

あのセブの未練がましい、しかし、だからこそ美しいミュージカルシーン。あんなに正直な男の妄想は、映画ではじめてだったかも。だから許してしまった。ミュージカルは夢も現実も、時間も空間も、一瞬で個人の世界につなげてしまう有無を言わせない力強さがあることを、この映画は証明した。

こういうのをマニアリスモというのだろう。昔の夢(映画)への露骨な愛情描写。映画が確かに万人の夢だった頃への、どうしようもない憧れ。チャゼルがそれを隠そうともしていないところに僕はとても好感をもった。彼は、映画の夢は醒める必要があることを知っている。『理由なき反抗』を上映した映画館は劇中で閉館してしまうのだから。しかし、彼は自らその醒めた夢に再び飛び込もうとしているのだ。醒めた夢に戻るには相当の覚悟がいる。チャゼルにはその覚悟があるだろうと思う。


そして行き着くのは、あの古典的な切り返しショット。視線がすべてを物語る。僕が一番すきなのはこのシーンだ。セブは「1,2、3、4」と口ずさみ、新たな曲を弾こうとする。ミアに捧げたあの曲を弾くことはもうないかもしれない。しかし重要なのは、彼が新たな曲を始めようとしていることである。このとき観客は、チャゼルが彼らの夢を、映画の過去を背負いつつ、確かに未来へと向かおうとしていることを知るのである、

2017年5月8日月曜日

家は泣いている

グスタボ・フォンタン『ラ・カサ』(2012年/アルゼンチン)
 
 映画はあらゆるものを平等に(少なくともその画面内においては)映すので、人間以外のこの世界にあるものの存在感を、今一度私たちに思い出させる。この『ラ・カサ』で観客が目撃するのは、壊れゆくある一軒家が最後に残す断末魔であり、崩れ落ちるレンガのひとつひとつに宿る物語だ。事物をこれほどまでに劇的に、人間との関わりをもって捉えた作品は稀有である。

前半と後半で、映画の様相は大きく異なる。前半は、家の屋内をカメラは滑らかに動き、幻想的な映像をもって、その家に住んでいた家族の記憶を綴る。常にぼやけた映像の流れの中で、さながら幽霊たちが集うように、おぼろげに過去の人間の営みが描かれるのだが、それはかなり感傷的であった。ここでもフォンタンの映画特有の音の素晴らしさを指摘したい。ひそひそとささやくような家族の声に、おもちゃが触れ合ってかすれる音など、様々な音が鮮明に響く。

 屋内の親密な前半からうってかわって、後半は屋外から、その家の崩壊をただまじまじとカメラは捉える。ブルドーザーが壁を砕き、レンガを押しのける。そこには一片の切なさもなく、ひたすらに無感情に家は壊されていく。前半の家族の記憶が頭に焼き付いている観客からすれば、それはもう恐ろしい光景である。人は普段、自分たちが手にするものに無頓着であり、なくなってはじめてその手触りを懐かしげに思い出すものだ。『ラ・カサ』ではレンガの一片一片にまで、すみずみにまで、命が吹き込まれ、その命が消し飛ぶ瞬間が記録される。それをホラー映画であると形容することは正しいと思う。ただ、ラストで崩され瓦礫となった家の残骸を映したのちに、カメラは軽くパン・アップして、隣に青々と生い茂る木々を捉える。このときに明らかになる人間の営みのはかなさ、そして自然の不気味なまでの存在、生命力は、その後のフォンタン作品にも共通するテーマなのではないかと思う。