2022年1月11日火曜日

2021年の活動まとめ

 【書いたもの】

・「証言映画としての『チリの闘い』――闘争の記憶を継承するために 」映像学 106号

・「破壊のあとの闘いーパトリシオ・グスマンとチリ映画史 」(『夢のアンデス』パンフレット

・「孤独から現実を見つめる パトリシオ・グスマン監督インタビュー 」(キネマ旬報2021年10月下旬号

・「映画からペルーを知る/ペルーから映画を知る」(キネマ旬報2021年12月上旬号 

・「それでもふたりでいること――『死が訪れ、君の目をさらっていく』 」(ゆにここ プライド特集エッセイ

・「歴史の再上映に立ち会う」(総合文化研究 (Trans-Cultural Studies) (24) 


【口頭発表したもの】

・「拡散する痕跡、収縮する記憶—チリにおける『記憶の場』の映画的表象をめぐって 」(第42回日本ラテンアメリカ学会定期大会

・「『マタインディオス』トーク」(ペルー映画祭 2021年12月10日


【字幕翻訳したもの】

・『アンデス、ふたりぼっち』

・『フロンテラ・アスール』(U-NEXTで配信中)

・『アンデスを織る女性たち』(U-NEXTで配信中)

・『オールド・タウン 憎しみの銃弾』(U-NEXTで配信中)

・『ロック・ボトム・ライザー』(イメージ・フォーラム・フェスティバル)

・『いのち播く女たち – 母たちの大地』(第8回グリーンイメージ国際環境映像祭 グリーンイメージ大賞)


【その他イベントなど】

・ぴあフィルムフェスティバルのセレクションメンバー(4回目)

・『ふゆうするさかいめ』トーク(住本尚子監督と、12月)

・スペイン語圏映画研究会sol@s(キノコヤにて)


2021年は査読論文を1つ出せたのと、パトリシオ・グスマン関係でいろいろと仕事をできたのがよかった。字幕もいくつかできた。一番がんばったのは黒川さんの映画。公開がとても楽しみ。2022年は留学準備と、それまでに論文を1つか2つは書きたい。

2021年10月18日月曜日

『ふゆうするさかいめ』住本尚子

 これはすでに監督本人や他の人が指摘していることだと思うけれど、この映画に出てくる人たちは劇中でそんなにずっと眠っているわけではない。ねむくてねむくてたまらないはずのマリノは、たとえパジャマのままであろうとも、朝になると喫茶店に出勤する。横たわる彼女の姿と同じくらい、街をゆくシーンの気怠そうだけどたしかな彼女の歩みが印象に残っている。営業に向いてなさそうなマモルや、つかみどころのない明るさがあるミノリにしても、日々働いて、生活を組み立てようとしている。

 でも、彼らの体の奥のほうには得体の知れないなにかがつねに眠っている気配がある。それは記憶や感情といった曖昧で捉えようのないものたちだ。過去から溜まってきたそれらの堆積物は、ときおり目に見えるサインとして表に出てくる。マリノにできた赤黒い床ずれ、マリノがはじめてマモルを意識したとき彼の背中にみた蠢めく皺、ミノリが領収書の切れ端に書かれた数字の0にみとめたマリノの筆跡、そしてマリノの目に映る「残像」としての両親の影。夢のようなふわふわしたイメージとしてよりも、より物理的で触覚的、ときに聴覚的な痕跡として、それらは現れる。マリノたちは今を生きながらずっと過去を背負っていて、それゆえ自分や他人が残していく標に敏感に気づき、引き寄せられてしまうのかもしれない。

 人の記憶というのはやっかいだ。思い出したい記憶を浮かべ、そうでない記憶を沈めようとしても、なかなかうまくいかない。私の場合、夢でみる過去の記憶は後味の悪いものが多く、だからその日みた夢はすぐに忘れてしまうか、覚えていてもあまり人に話せない。感情にしたってすべてコントロールはできないから、なかったことにしてやり過ごすこともしてきた。日々を生きていくためにはいったん忘れておかないといけないことがたくさんある。マリノも公園の砂場に携帯電話としての過去を埋め続けることでこれまでなんとかやってきたのだろう。

 その均衡は、それぞれの記憶や感情が掘り起こされて触れあうことで危うくなる。マリノの過去に迫ろうとすることで、ミノリとマモルの関係はだんだん不安定なものになっていくようにみえる。マリノも彼らに出会うことで、体に眠っていた記憶が目を覚まして勝手に動きだすように、ダンスをしたり、残像が見えたりするようになる。

 記憶が触れあう、と書いたけれど、この映画は、誰かの記憶とほかの誰かの記憶を簡単にひとつに溶け合わせたりはしない。「ふゆうするさかいめ」というタイトルだし、次になにがおこるかわからない映画だから、ここではいろいろな境目がなくなってしまうのだと思いたくなるが、各々の「記憶の境目」はたしかにある。ミノリが「私にとってはマリノと過ごしたすべてが大切」と告げても、いまのマリノはよく覚えてないし素直にそう思えないだろう。マモルがふたりの出会いの記憶を鮮明に覚えているつもりでも、「それはあなたの記憶でしょ」と言われてしまうだろう。

 川上弘美に「境目」というタイトルのエッセイがある。境目を引くことはときに困難なものを呼び寄せるかもしれないが、それでも、たとえば季節がそうであるように、「みんな一緒」ではなくそれぞれの存在を慈しむためにも境目は悪くないものなのだそうだ。昨日と今日、忘れたいことと覚えておきたいこと、私の記憶とあなたの記憶。それらに区別をつけることで、私たちは自らの生を守っている。

 でも、『ふゆうするさかいめ』はそれらの境目が永久不変ではないことを示してくれる。境目は消えるのではなくて、そこにまだあるけどあり方や捉え方が変わっていくものではないか。あなただけの記憶と思っていたものが、いつかわたしにもわかるかもしれない。忘れたいと思っていたことを、思い出してもいいと思えるようになるかもしれない。親に習わされたダンスを、自分のものとして友達と踊りたくなるかもしれない。ミノリがマリノの家で見たものがマリノが見ているそれとは厳密にはちがってもなんとかなっているように、ふたりのあいだに境目はあってもいっとき心を通わせることはできる。

 この映画は境目をむりやり溶解させるのではなく、自然な変化にまかせている。忘れたいことはそのまま忘れて生きてもいいのだと優しく肯定してくれる。でも同時に、ある記憶をどうしても忘れられないこともまた、肯定してくれているように思う。それがつらい記憶であっても、身について忘れられないものはしょうがないし、私たちはなんとかそれと一緒にいるしかない。裂かれた布団から舞う羽毛を頭や服にくっつけながら、階段を降りてそれぞれの場所へ進むマリノたちを見てそう思った。布団につまった羽毛は、ままならない記憶の残滓だったのだろうか。かつてあったあらゆる記憶は、それが良いか悪いかにかかわらず、私たちを構成する一部だ。

 小学校の校庭で並んで横たわる3人の姿は切ないけれどすがすがしい。劇的に変わったものなどないが、ここからはじめることができるかもしれないと少しでも思えることが大事だ。これから忘れてもいいし覚えていてもいい。その線引きは絶対ではない。忘れてしまった記憶の痕跡や、忘れられない記憶を抱えた体を引きずって今を歩む私たちを、この映画はそっと包んでおくりだしてくれる。

2021年10月1日金曜日

Rosario Bléfari "Estaciones" : ロサリオ・ブレファリ「季節」試訳



por la costumbre de verte
あなたとよく会うようになって

me empezó a gustar tu suerte y tu vida
あなたの境遇と生き方が好きになった

demasiado cerca de la mia
私のとあまりに近かったから

decímelo otra vez
もう一度言って

no entendí nada
なにもわからなかった

me distraen sin remedio
どうしようもなく見つめてしまう

tus labios que se abren
あなたの唇が開いて

y se cierran
閉じる

y se abren y no hay nada mas
また開く それだけを

y no hay nada mas
ただそれだけを

próxima estación: verano
次の季節は夏



apago la alarma de nuevo
またアラームを消す

subo la luz para verte
あなたを見るため明かりを強くする

algo me dice que estás lejos de aca
あなたはここから遠いところにいるんだって

demasiado lejos
遠すぎるところに

próxima estación: otoño
次の季節は秋



pensar que ayer crei morir
昨日は死んでしまうかと思った

me parece que puedo seguir
でも大丈夫そう

un capítulo me hizo sonreir
ドラマを見て笑った

si me equivoque, mejor o peor
間違っていたとしてもいい

quién tiene acaso todo asegurado
万全な人なんてどこにいるの

próxima estacion: invierno
次の季節は冬



un tatuaje equivocado
間違ったタトゥー

borrarlo duele
消すのは痛くて

es complicado
やっかい

no me curo si no aguanto
治るためには耐えないといけない

hasta que despierte en otro lado
向こう側で目覚めるまで



próxima estación
(un tatuaje equivocado)
次の季節
(間違ったタトゥー)

próxima estación:
(borrarlo duele, es complicado...)
次の季節は
(消すのは痛くて、やっかい)

primavera sin tu amor
あなたの愛がない春

2021年7月24日土曜日

スペイン語圏映画研究会「sol@s」

現在、月に1回くらいのペースでスペイン語圏(ラテンアメリカやスペイン)の映画を見てお話する会「sol@s」(「ソロス・ソラス」とよみます)を、東京の西側で開いています。日本で公開されていないマイナーだけど大事な作品を全員で見て、その後担当者が解説をして皆で感想を言い合うという形をとっています。このブログを見ていて参加したいという珍しい方がもしいましたら、ご連絡ください。この状況下なのでなかなか大勢では集まれませんが、こじんまりと続けていきたいと思います。

2021年6月7日月曜日

石田智哉『へんしんっ!』(オープン上映)を観て

 少し前に石田智哉監督『へんしんっ!』の試写会に行った。普段はめったに試写状なんてもらわないからこういう機会は嬉しい。『へんしんっ!』は、電動車椅子を使って生活する石田監督自身が「障害者の表現活動」について知ろうと、様々な人々と出会っていく映画だ。この作品は試写会でも6月からの映画館での公開でも、映画本編に日本語字幕と音声ガイドが付く「オープン上映」という形式をとる。従来の映画だと「バリアフリー上映」として限定的に行われてきた形式を、同じ空間で観客全員がひとしく体験することになる。私はこの作品自体はすでに昨年のPFFで見ていたけれど、それが「オープン上映」によってどのような鑑賞体験へ変わるのか気になっていた。結果として映画が終わったあとに感じたのは、これはまったく新しい映画経験かもしれないということだった。この「オープン上映」について、会場でもらった資料には「石田智哉監督が探求したものを表現するため」と説明がある。作品内容については同じ資料に伊藤亜紗や想田和弘による充実したレビューが載っていたので、ここではひとりの観客としてこの上映を体験して感じたことを綴ってみたい。まとまりがなくてうろおぼえのところもあるがそのあたりはごめんなさい。

 まず、映画冒頭で配給会社である東風のロゴが出て、その説明が音声ガイドで流れたときから、おおっとなった。ほんとによく覚えていないのだが「銀色の文字が風で〜」みたいにロゴの動きまで詳細に述べていて、臨場感というか、たしかにこういうロゴだったなと、これまで何度も見てきたロゴのあり方をはじめて意識した。このように、『へんしんっ!』では人物や物の配置や動作などの視覚的な情報は音声ガイドによって捕捉され、作品内の音声情報(人々の会話や環境音)については日本語字幕が投影される。
 健常者といえる私にとって、字幕と音声ガイドがつねにある状態は、情報が溢れていて大変だなと最初は思った。字幕は慣れればそこまで気にならないかもしれないが、会話の合間を縫うように入ってくる音声ガイドは詳細な説明を映像に対して加えているので、気にならないといえば嘘になる。一般的にドキュメンタリーでは、セリフやナレーションですべてを説明してしまう作品はあまり評価されず、あいまいで多様な意味をもつ現実をできるだけ、その複雑性をそのまま映像や音響で示し、観客に想像の余地を残すほうがよしとされていると思うが、その物差しをあてはめるとこの上映はあまり評価されないだろう。
 けれど、そうした評価基準はひとつの健常者よりの目線にすぎないと思った。映画を見て感じたことを書いたり、その作品を評価するとき、しらずしらずのうちに私はある一定の観客の身体を前提とし規範にしているのだと、この上映の途中で気づいた。映画を受容する人々のなかには、視覚障害や聴覚障害をもっている人もいる。その人たちにとっての映画体験は私のそれとは当然ちがってくるだろう。というより、あたりまえだが、私ではない身体をもったあらゆる観客の体験は私の体験とは異なるだろう。映画史や映画理論を少しでもかじれば、観客は普遍的なひとまとまりの属性にまとめられるのではなく、様々な出自や身体、アイデンティティをもった存在だとわかるのに、障害を持つ観客についてはこれまで全然意識してこなかった。
 『へんしんっ!』の作品テーマは、個々人の身体のちがいに気づきながら、その接点を探ることだと思うが、その実践は鑑賞のレベルでも目指されているのではないか。そう思ってから、『へんしんっ!』のオープン上映は私にとって、私とはちがう身体をもった人々の映画体験を想像しうるものとして働きはじめた。すぐれた野球の実況中継のように的確な音声ガイドのリズムにのって製作陣の焦点をうかがいながら、映像と音声、字幕の関係(映像の単なる答え合わせの字幕や音声ではなく、ずれているところもあって面白い)を気にして映画を楽しむこともできるが、それ以上に、このシーンをなるべく聴覚だけで感じたらどうだろう、視覚だけで捉えたらどうだろう、というふうにいろいろな受容を想像し、体験できるのが新鮮だった。製作者や出演者にとってこの映画のなかでの体験は人それぞれちがっただろうし、観客にとってもこの映画の受け取り方は様々であると思う。そのことを意識することで、いま見てる映像や聞こえる音が少しちがうようにして体に入ってくる。もちろん、作中で美月さんが述べるような鋭敏に「見る」感覚は私には備わっていないが、それでもなんとか想像だけはしてみたくなる。このように、自分とは違う身体をうっすらと自分の身体のうえに重ねて映画を観るという体験ははじめてだった。そういった見方をすることで、映画の終盤のダンスで美月さんが身体を持ち上げられたときに発する「うわっ」という声や表情に宿るよろこばしい触覚の手触りもなんとなくわかるような気がした。
 ここまでいろいろ書いているが、やはり「障害をもっている人」というくくりでカテゴライズして、とある鑑賞体験をまとめてしまうことは乱暴だろう。ナレーションで全部説明されればよいと思わない人もいるだろうし、これを機会にできるだけたくさんの方の映画の見方・聞き方を知りたいと思った。

 最後に少し映画の内容に触れると、この映画は新しいかたちのセルフドキュメンタリーであるように思った。原一男みたいに確固とした社会に対抗する確固たる自分という問題意識でも、近年のセルフドキュメンタリーにみられるあやふやな自己から出発してたしかな何かを探求するといった仕方でもこの映画はくくれない。作中で徐々に石田監督という「個」はたしかに立ち上がっていくのだが、それはつねに、すでに石田監督のまわりにある、または映画製作を通じて出会っていく複数の他者の存在を介して、つまり他人を知ることで自分を知るというたえざる往還においてなされている。現実社会に「私」という個人で対峙するのではなく、もうひとつの即興的かつゆるやかな社会=共同体を立ち上げているともいえる。そして、その過程が映画製作の根幹にあることで、映画という制度のなかにある協働のあり方も自己反省的に問い直していると思った。「個にこもらず、でも他人に寄り添いすぎず」という砂連尾さんの言葉のように、完全な自立か他者への従属かという二項対立とはちがうところで、自分という存在を取り巻き構成している人々・物(この映画における車椅子や杖の存在を考えてみることも面白そう)の存在を知り、それを自らの理解へと織り込むことで各々が主体を形成していくこと。私たちが生きたり映画を撮る上で依って立ついろいろなかたちの依存関係を、複数の身体のレイヤーを透かせて知覚し、露呈させること。熊谷晋一郎は「自立とは依存先を増やすこと」と言っていたと思うが、その意味で本作は真にインディペンデントなセルフドキュメンタリーだと思う。

2021年1月7日木曜日

2020年の活動まとめ

【 2020年に書いたもの】

・修士論文「キューバ映画の公共圏ー1960年代を中心に」

・『タゴール・ソングス』作品評(映画パンフレット)

・『アボカドの固さ』作品評(映画パンフレット)

・『眠る虫』作品評(web)https://www.nobodymag.com/journal/archives/2020/0904_1301.php

・「われ発見せり」『ユリイカ』2020年12月号


【2020年に発表したもの】

・科研研究会 社会主義文化のグローバルな伝播と越境「1960年代キューバ映画と社会主義圏の交流」(2月)

日本ラテンアメリカ学会東日本研究部会「チリにおける『サード・シネマ』の展開」(12月)


【その他イベントなど】

・ぴあフィルムフェスティバルのセレクションメンバー(3回目)

・『タゴール・ソングス』トーク登壇(佐々木監督と、6月)

・キノコヤ『エル・スール』上映会トーク登壇(遠山純生さん、三宅隆司さんと、12月)


2021年こそは査読論文を通したい。そのためにはもっと勉強時間を増やさないといけない。あとは上映会をやりたい。字幕もやりたい。1日1日を大切にしよう。

2020年12月23日水曜日

セルゲイ・ロズニツァ『アウステルリッツ』

 最初のほうのカットでアウステルリッツを訪れた観光客がたむろしてガヤガヤ話しているのをみたとき、こんなにたくさんの人の動きや声をきちんと捉えることはできるだろうかと少し圧倒されたのを覚えている。次から次へとやってくる観光客が思い思いにしゃべったり、行動している。このときの録音は、彼らの話している言葉そのものよりも、全体的なガヤガヤとした乱雑な音の流れを強調していて、これを90分ずっと知覚していくのはなかなか大変だぞと思った。
 しかし、やがて彼らが収容所の跡地に足を踏み入れ観光をはじめると、かれらの声や動作の複雑さはだんだんと統一され、ひとまとまりの「群衆」を彼らは形成していく。たぶんこの映画を見た人の多くが指摘し、いやな気分にもなるだろう、観光客が自撮りをしたりけらけら笑ったりする、ある種の軽薄な態度も目につくが、そういうふうにたいして真剣にホロコーストの記憶に向き合っているようには見えない彼らでさえも、なにかに操られるようにしてぞろぞろ列をなして収容所を巡っていく光景はかなり異様だ。まるでなにかの儀式のように、膨大な数の人々が決まりきった手順とルートを守って、一つの場で動作を反復させている。この儀式のルールから外れる人たちは作中にはあまり見当たらなかった。ある場面で子供が母親に「そっちへ行っちゃだめでしょ」と言われていたのが印象に残っている。
 歴史を学ぶ態度がなっていないといって彼ら観光客を批判することは簡単だろう。しかし、それだけでは済まされないような状況をこの映画は記録している。いったいなにがかれらを動かしているのか。この儀礼的な集団を形成させているものはなんなのか。そう思いながら画面上をすぎゆく人々を見つめていて感じたのは、記憶という責務に示す彼らの退屈と疲弊だった。神妙な顔をしながらアウステルリッツの地を進む彼らが時折おどけたりはしゃいだりするのは、ホロコーストという人類の悪を突きつけられたときの一種の防衛機制だろう。ガイドたちの説明は理路整然としていて、この地でなにがおこったかを「第三者」の目線からしっかり解説してくれるが、その早口の解説を聞く観光客は、そこで受け取ってしまったものをどう処理すればよいのか困っているように見えた。情報として処理してしまえないなにかを彼らは感じ取っているのではないか。でも、その感覚をどうすればよいのかわからないので、みなで似通った反応をしてやりすごそうとしている。だから、この映画の中盤で、周囲の音を鎮まらせてカメラが捉える、画面外のある対象を見つめる人たちの真剣にみえる顔と、ツアー途中で照れたように笑う人たちの顔は表裏一体のもので、退屈になってしまいそうな時間をメリハリつけてやりすごすための一連の身振りなのだ。過去のすさまじい記憶をすんなりと受け取ってしまえること、またはそれを退屈に過ごしてしまえることに気づいて、当時から遠く離れた時点にいる彼らはそれをどう扱えばいいのかわからない。それでも、記憶を辿るルートは非の打ち所がなく定められていて、進むしかない。そのうち彼らは疲弊して、ゾンビのごとく行進する集団になっていく。
 これはポール・リクールがいうような記憶の義務なのかもしれない。みなで記憶しなければならない、考えなければならないという倫理的な義務感が先走ってしまって、どう記憶すればよいのか、なぜ記憶しなければならないのかを考えるひまがない。この義務感が記憶をめぐる群衆=観光客を形成させる動力源のひとつだろう。または、そういった義務感や使命感と対にある、「なんとなく来た」という気まぐれな感覚もその地に人の足を運ばせるきっかけになる。そうした義務感と気まぐれのあいだに立って、第三者なりに記憶と向き合う姿勢こそがいま問われているはずだが、その答えのありかをこの映画は示さない。この映画に出てくる人たちがほんとうのところなにを考えているかはわからないが、たとえばもの思いにふける人物を長回しで映すなりして、模範的な記憶の考え方を提示することをこの映画は選ばなかった。そのかわりに、この地点からはじめる以外にはないんだということだけを強く映している。想像を絶するほどの過酷な記憶が、当たり前のように整理され、受け取られていくこと。その状況にみなが知らず知らずのうちに退屈し、疲弊していること。世界中のあらゆる場所でおこっている歴史認識の論争の裏にはこんな事態が進行している。これは歴史や記憶の風化というよりも慣れの問題だろう。ホロコーストの記憶の問題は、表象の適切さや不可能性といったテーマをこえて、そうした局面に入っている。