2019年6月26日水曜日

『幸せな人生からの拾遺集』『グリーンポイントからの手紙』ジョナス・メカス

 あらすじを読むだけだと、これまで使われなかった映像の寄せ集めのようにもみえる『幸せな人生からの拾遺集』は、とんでもなく巧みで緻密な映画だった。『リトアニアへの旅の追憶』と同じように、メカスのプライベートな映像がどんどんモンタージュされ、そこに15歳の少女ダイアンがメカス宛に出した手紙の文章が重ねられる。印象的な言葉をひとつあげるなら、「わたしが見ること、どこかにいて心のためになにかをすることはまるっきりわたしにかかっている」。家族の団欒、食事、宴会、ピクニック。メカスの映像はすべて極個人的なものだが、そこに他人の少女のこれまた内省的な言葉が付け加わることで、言葉と映像のあいだに緊張関係が生まれる。メカスと少女、複数の「わたし」が垣間見えてくる。どれがメカスの言葉で、どれが彼女の言葉であるかは曖昧だけど、映像を補足するような役割ではなく、言葉それ自体として自立していて、そのことでこの映画が彼女とメカスの共同制作のような気がしてくる。見えない彼女のイメージも見えるような。
 メカスは「記憶のことなんて気にしない けれど自分の目で見たり キャメラで記録したものが好きだ」とか「ただのイメージだ」と言っていて、「わたし」とか「記憶」という問題に対して、ずいぶん冷静であることがわかる。メカスは安易なノスタルジーや記憶へのセンチメンタリズムに陥ることが決してない。自分の「ただのイメージ」をより詳細に記録しようとしている。そして、ひとつのイメージにこだわらず、次へ次へと映像を揺らし送っていく。観客はメカスのカメラが観た純粋なイメージをただひたすらに膨大に享受するだろう。そうして時間を刻むうちに、共感や感情移入とは別の回路をつうじて、自分のイメージが今見ているメカスのそれと交差していく。今はもう覚えていない「わたし」の潜勢的なイメージの数々があるだろうことを実感し、やがてその中からいくつかのイメージが映画によって思い起こされる。そのイメージはつかの間ですぐに忘れてしまうのだが、そうした無数のプライベートなイメージの集積場として、誰しもの記憶を解凍し、一瞬でも生き生きとさせる場として、この映画は優れて公共的であると思った。
 『グリーンポイントからの手紙』は正直最初は退屈するだろうと思ったが、メカスの人柄と想像力が、いつもよりも気楽で気の抜けたビデオ映像の魅力もあいまって爆発していた。ゆで卵ひとつで社会を語ってしまいながら、さみしそうにライク・ア・ローリング・ストーンを熱唱する彼の涙が忘れられない。いい奴なんだろうなあと思った。