早稲田松竹のペドロ・コスタ特集で『ヴァンダの部屋』を観た。今回、映画館で、しかも35ミリのフィルム上映で観られてほんとうによかったと思う。どんどん解体されていく建物の騒音や部屋を包む深い暗闇が、くっきりとした輪郭を帯びて、こちらに迫ってきた。映画館という一つの部屋と、ヴァンダの部屋とが、各々の暗闇を介してつながる感覚があった。こういう体験は滅多にできない。
『ヴァンダの部屋』は、ポルトガル、リスボンの移民街を舞台に、解体され崩壊していく街の姿とそこに生きる人々を映している。ヴァンダというのは、この街に暮らす一人の女性の名前だ。彼女は長いこと画面に映っているが、特に何もしていない。自分の部屋にこもって、ひたすらにドラッグを吸い、たまに激しく咳き込んだり、友達としゃべったりして、基本ぼーっとしている。目だけはいつもぎらぎら輝かせながら。
そんな彼女を、カメラはピクリとも動かずにとらえ続ける。長いなと最初は感じた。でも、ヴァンダが、これまでドラッグを吸うために費やしてきて、もう火がでなくなったライターの山をあさるシーンを見ると、今目にしている以上の膨大な時間がこの部屋に積み重なっていることが一瞬でわかってしまう。今見ている以上の時間の存在に気づかされる。それからは、この映画の時間に身を委ねようと思った。
そうしたら、いろいろと気づくことがある。まずは、部屋の外から聞こえてくる、街を解体する工事の音。ガンガンと鳴り響いていて、さらに音の出処が見えないから圧迫感がある。こんな音に包まれて暮らすのはどんな気持ちだろう。他にも、ヴァンダの身体が気になった。痩せていて、腕はものすごく細い。咳もひどいし、今にも倒れそうだ。でも、弱弱しくは全くない。その研ぎ澄まされた身体に、彼女は自分の魂を確かに宿し、守っている。ヴァンダの部屋に充満する闇は、そういった外部の音やヴァンダの身体を取り込みながら、時間をかけて沈殿していく。
取り壊し工事の音に象徴される外部からの侵攻に対して、ヴァンダは自分の部屋に篭城することで、抵抗を貫いているようだ。鋭い目をして、終始いらだっているようにみえるが、彼女がふと見せるまっすぐな優しさにはっとすることが何度かある。同じ街に暮らし、居場所がなくなったのだろう青年が彼女の部屋を訪れたとき、ヴァンダがかける言葉が忘れられない。正確には覚えていないが、「これからも分け合って、助け合って生きていこう。お前はここにいてもいいよ」と言っていたと思う。そう、ここにいてもいいのだ。何もないように、何もしていないように見えるけど、彼らはここに生きていい。まっすぐな生の肯定がふらりと映画に立ち現れる。そんな瞬間だった。
ヴァンダは部屋にこもっているが、この映画は外部-内部を二項対立的に分けるような、そんな決まりきったわかりやすい映画ではない。ヴァンダの部屋に差し込む光は、まぎれもなく外から入ってきたものだ。その光によって、わたしたちは彼らの表情を知り、そしてあの部屋の暗闇の深さを知ることができる。同じく解体中の家に住む青年たちが「さあ船出の時間だ」と言って、外に飛び出すシーンも思い出したい。『ヴァンダの部屋』は内に閉じこもりながら、そこから剥き出しの生をもって世界を開いていく映画だ。