2024年9月5日木曜日

太田達成『石がある』

 スクリーンで見てから1ヶ月くらい経つが時々この映画を思い出す。見ている間はけっこうハラハラしていた。映画の先行きが予想できないのもあるが、主役のふたりが過ごす一見楽しそうな無為の時間にはりつく危うさが気になっていた。仕事で来ているらしい女性(小川あん)は水切り遊びをする男性(加納土)と遭遇するまでに老人と子供たちと関わる。その都度のやり取りから、慎重だが流されやすい彼女の人となりがわかる。老人の車に入るのも子供たちのサッカーに混ざるのも若干迷うところだが彼女は拒まない。なんでも受け入れるタイプなのだと思う。
 土くん演ずる男性は大きな体に石のような色の服を着ていて、その存在の密度や重力が印象的。その重さに反して運動はかなり得意そうで、動きに迷いがあまりない。動作が力強くまっすぐで、水面を跳ねる石のようにすばやく画面内外で水溜りを飛び越えたり川を渡る。この川を渡る場面、そんなに浅そうには見えない川に腰まで浸かって女性のほうへずんずん向かってくる様子はかなり衝撃的で、笑っていいのかもしれないけど、観客は女性側からそれを見ていることもあって、その尋常ではない様子はちょっと怖い。その後も彼はとくに目的もなく女性の後をずっと追っていくので不安になる。
 彼らは見た目の性別も身のこなしも異なっていて、だからたいして乗り気ではなさそうな女性に男性が理由なくついていくのに大丈夫か……?という気持ちになる(そうやってひどいめにあう映画をたくさん見てきた)が、そうした社会的な慣習や属性から離れたところで関係ができていく様子を映そうとしたのが『石がある』なのだろう。男性が家に帰って書く日記で女性のことを「人」と呼ぶように、この映画には固有名詞や人物の背景描写がほとんどない。公園ではじめて知り合って遊ぶ子どもたちが結ぶような関係を、石をはじめとするいろいろなものの即物性をまじえて抽象的になりすぎずに撮っている。
 彼らが石遊びや枝遊びをして戯れる無垢なヴァカンス的時間そのものよりも、そうした時間が終わり、急に我にかえってひとりになりながらも、さきほどまでの時間を反芻していく過程が面白かった。子どもなら家に帰らなくてはならない夕方と夜のあいだにクロースアップで映される2人の顔、小川さんの険しい顔や土くんのなんともいえない気まずい顔が生々しい。この場面のあとから、それまで社会的にはあまり理解できない行動をとってきた男性の役割が女性のほうに転移していくのは意外だった。男性は家に帰って生活の匂いが漂ってくるが、そのへんをさまよう彼女のほうはどんどん大胆になるというか自由に逸脱していく。そこに犬がいたから散歩しましたみたいに振る舞う小川さんは堂々としている。ああこの人のことよくわかってなかったかもしれないと感じはじめる。
 普通に社会で暮らしているとまっさらに人と出会うことは難しいから、社会的な理から少しでも外れた人には身構えるし、そういう関係を見ていると危うく感じる。『石がある』もはじめはそういう気分から逃れられなかったが、最後のほう、ふたりが再び束の間交差する場面を見ると、人の危うさやわからなさ、掴みがたさを別様に眺められる気もしてくる。石が川辺に無数にあるように人は世界にいて、気になる石を拾うように人と人は偶然出会う。同じ石でも水と接する面や持ち方投げ方を変えれば沈んだり跳ねたり動きが変わるが、人も見方を変えればちがう面に気づく。出会いの偶然というのは最初の一点で凝固せずに、もっと幅広い時間のなかで変容していく。そういう人やものの潜在性や可能性みたいなものがまわりに茫漠としてあるのだろうと試写の帰りの電車で考えていた。これまでに出会って覚えている人やものや時間、それからもう思い出せない無数のそれらが急に思い出される。『石がある』は異物のような映画で、見てから時間が経ってもあまり飲み込めていない。怖かったり、心許なかったり、ちょっと嬉しかったり、見ているときや見終わったあとでいろいろな感情や余韻がまざりだす映画だった。