2021年7月24日土曜日

スペイン語圏映画研究会「sol@s」

現在、月に1回くらいのペースでスペイン語圏(ラテンアメリカやスペイン)の映画を見てお話する会「sol@s」(「ソロス・ソラス」とよみます)を、東京の西側で開いています。日本で公開されていないマイナーだけど大事な作品を全員で見て、その後担当者が解説をして皆で感想を言い合うという形をとっています。このブログを見ていて参加したいという珍しい方がもしいましたら、ご連絡ください。この状況下なのでなかなか大勢では集まれませんが、こじんまりと続けていきたいと思います。

2021年6月7日月曜日

石田智哉『へんしんっ!』(オープン上映)を観て

 少し前に石田智哉監督『へんしんっ!』の試写会に行った。普段はめったに試写状なんてもらわないからこういう機会は嬉しい。『へんしんっ!』は、電動車椅子を使って生活する石田監督自身が「障害者の表現活動」について知ろうと、様々な人々と出会っていく映画だ。この作品は試写会でも6月からの映画館での公開でも、映画本編に日本語字幕と音声ガイドが付く「オープン上映」という形式をとる。従来の映画だと「バリアフリー上映」として限定的に行われてきた形式を、同じ空間で観客全員がひとしく体験することになる。私はこの作品自体はすでに昨年のPFFで見ていたけれど、それが「オープン上映」によってどのような鑑賞体験へ変わるのか気になっていた。結果として映画が終わったあとに感じたのは、これはまったく新しい映画経験かもしれないということだった。この「オープン上映」について、会場でもらった資料には「石田智哉監督が探求したものを表現するため」と説明がある。作品内容については同じ資料に伊藤亜紗や想田和弘による充実したレビューが載っていたので、ここではひとりの観客としてこの上映を体験して感じたことを綴ってみたい。まとまりがなくてうろおぼえのところもあるがそのあたりはごめんなさい。

 まず、映画冒頭で配給会社である東風のロゴが出て、その説明が音声ガイドで流れたときから、おおっとなった。ほんとによく覚えていないのだが「銀色の文字が風で〜」みたいにロゴの動きまで詳細に述べていて、臨場感というか、たしかにこういうロゴだったなと、これまで何度も見てきたロゴのあり方をはじめて意識した。このように、『へんしんっ!』では人物や物の配置や動作などの視覚的な情報は音声ガイドによって捕捉され、作品内の音声情報(人々の会話や環境音)については日本語字幕が投影される。
 健常者といえる私にとって、字幕と音声ガイドがつねにある状態は、情報が溢れていて大変だなと最初は思った。字幕は慣れればそこまで気にならないかもしれないが、会話の合間を縫うように入ってくる音声ガイドは詳細な説明を映像に対して加えているので、気にならないといえば嘘になる。一般的にドキュメンタリーでは、セリフやナレーションですべてを説明してしまう作品はあまり評価されず、あいまいで多様な意味をもつ現実をできるだけ、その複雑性をそのまま映像や音響で示し、観客に想像の余地を残すほうがよしとされていると思うが、その物差しをあてはめるとこの上映はあまり評価されないだろう。
 けれど、そうした評価基準はひとつの健常者よりの目線にすぎないと思った。映画を見て感じたことを書いたり、その作品を評価するとき、しらずしらずのうちに私はある一定の観客の身体を前提とし規範にしているのだと、この上映の途中で気づいた。映画を受容する人々のなかには、視覚障害や聴覚障害をもっている人もいる。その人たちにとっての映画体験は私のそれとは当然ちがってくるだろう。というより、あたりまえだが、私ではない身体をもったあらゆる観客の体験は私の体験とは異なるだろう。映画史や映画理論を少しでもかじれば、観客は普遍的なひとまとまりの属性にまとめられるのではなく、様々な出自や身体、アイデンティティをもった存在だとわかるのに、障害を持つ観客についてはこれまで全然意識してこなかった。
 『へんしんっ!』の作品テーマは、個々人の身体のちがいに気づきながら、その接点を探ることだと思うが、その実践は鑑賞のレベルでも目指されているのではないか。そう思ってから、『へんしんっ!』のオープン上映は私にとって、私とはちがう身体をもった人々の映画体験を想像しうるものとして働きはじめた。すぐれた野球の実況中継のように的確な音声ガイドのリズムにのって製作陣の焦点をうかがいながら、映像と音声、字幕の関係(映像の単なる答え合わせの字幕や音声ではなく、ずれているところもあって面白い)を気にして映画を楽しむこともできるが、それ以上に、このシーンをなるべく聴覚だけで感じたらどうだろう、視覚だけで捉えたらどうだろう、というふうにいろいろな受容を想像し、体験できるのが新鮮だった。製作者や出演者にとってこの映画のなかでの体験は人それぞれちがっただろうし、観客にとってもこの映画の受け取り方は様々であると思う。そのことを意識することで、いま見てる映像や聞こえる音が少しちがうようにして体に入ってくる。もちろん、作中で美月さんが述べるような鋭敏に「見る」感覚は私には備わっていないが、それでもなんとか想像だけはしてみたくなる。このように、自分とは違う身体をうっすらと自分の身体のうえに重ねて映画を観るという体験ははじめてだった。そういった見方をすることで、映画の終盤のダンスで美月さんが身体を持ち上げられたときに発する「うわっ」という声や表情に宿るよろこばしい触覚の手触りもなんとなくわかるような気がした。
 ここまでいろいろ書いているが、やはり「障害をもっている人」というくくりでカテゴライズして、とある鑑賞体験をまとめてしまうことは乱暴だろう。ナレーションで全部説明されればよいと思わない人もいるだろうし、これを機会にできるだけたくさんの方の映画の見方・聞き方を知りたいと思った。

 最後に少し映画の内容に触れると、この映画は新しいかたちのセルフドキュメンタリーであるように思った。原一男みたいに確固とした社会に対抗する確固たる自分という問題意識でも、近年のセルフドキュメンタリーにみられるあやふやな自己から出発してたしかな何かを探求するといった仕方でもこの映画はくくれない。作中で徐々に石田監督という「個」はたしかに立ち上がっていくのだが、それはつねに、すでに石田監督のまわりにある、または映画製作を通じて出会っていく複数の他者の存在を介して、つまり他人を知ることで自分を知るというたえざる往還においてなされている。現実社会に「私」という個人で対峙するのではなく、もうひとつの即興的かつゆるやかな社会=共同体を立ち上げているともいえる。そして、その過程が映画製作の根幹にあることで、映画という制度のなかにある協働のあり方も自己反省的に問い直していると思った。「個にこもらず、でも他人に寄り添いすぎず」という砂連尾さんの言葉のように、完全な自立か他者への従属かという二項対立とはちがうところで、自分という存在を取り巻き構成している人々・物(この映画における車椅子や杖の存在を考えてみることも面白そう)の存在を知り、それを自らの理解へと織り込むことで各々が主体を形成していくこと。私たちが生きたり映画を撮る上で依って立ついろいろなかたちの依存関係を、複数の身体のレイヤーを透かせて知覚し、露呈させること。熊谷晋一郎は「自立とは依存先を増やすこと」と言っていたと思うが、その意味で本作は真にインディペンデントなセルフドキュメンタリーだと思う。

2021年1月7日木曜日

2020年の活動まとめ

【 2020年に書いたもの】

・修士論文「キューバ映画の公共圏ー1960年代を中心に」

・『タゴール・ソングス』作品評(映画パンフレット)

・『アボカドの固さ』作品評(映画パンフレット)

・『眠る虫』作品評(web)https://www.nobodymag.com/journal/archives/2020/0904_1301.php

・「われ発見せり」『ユリイカ』2020年12月号


【2020年に発表したもの】

・科研研究会 社会主義文化のグローバルな伝播と越境「1960年代キューバ映画と社会主義圏の交流」(2月)

日本ラテンアメリカ学会東日本研究部会「チリにおける『サード・シネマ』の展開」(12月)


【その他イベントなど】

・ぴあフィルムフェスティバルのセレクションメンバー(3回目)

・『タゴール・ソングス』トーク登壇(佐々木監督と、6月)

・キノコヤ『エル・スール』上映会トーク登壇(遠山純生さん、三宅隆司さんと、12月)


2021年こそは査読論文を通したい。そのためにはもっと勉強時間を増やさないといけない。あとは上映会をやりたい。字幕もやりたい。1日1日を大切にしよう。

2020年12月23日水曜日

セルゲイ・ロズニツァ『アウステルリッツ』

 最初のほうのカットでアウステルリッツを訪れた観光客がたむろしてガヤガヤ話しているのをみたとき、こんなにたくさんの人の動きや声をきちんと捉えることはできるだろうかと少し圧倒されたのを覚えている。次から次へとやってくる観光客が思い思いにしゃべったり、行動している。このときの録音は、彼らの話している言葉そのものよりも、全体的なガヤガヤとした乱雑な音の流れを強調していて、これを90分ずっと知覚していくのはなかなか大変だぞと思った。
 しかし、やがて彼らが収容所の跡地に足を踏み入れ観光をはじめると、かれらの声や動作の複雑さはだんだんと統一され、ひとまとまりの「群衆」を彼らは形成していく。たぶんこの映画を見た人の多くが指摘し、いやな気分にもなるだろう、観光客が自撮りをしたりけらけら笑ったりする、ある種の軽薄な態度も目につくが、そういうふうにたいして真剣にホロコーストの記憶に向き合っているようには見えない彼らでさえも、なにかに操られるようにしてぞろぞろ列をなして収容所を巡っていく光景はかなり異様だ。まるでなにかの儀式のように、膨大な数の人々が決まりきった手順とルートを守って、一つの場で動作を反復させている。この儀式のルールから外れる人たちは作中にはあまり見当たらなかった。ある場面で子供が母親に「そっちへ行っちゃだめでしょ」と言われていたのが印象に残っている。
 歴史を学ぶ態度がなっていないといって彼ら観光客を批判することは簡単だろう。しかし、それだけでは済まされないような状況をこの映画は記録している。いったいなにがかれらを動かしているのか。この儀礼的な集団を形成させているものはなんなのか。そう思いながら画面上をすぎゆく人々を見つめていて感じたのは、記憶という責務に示す彼らの退屈と疲弊だった。神妙な顔をしながらアウステルリッツの地を進む彼らが時折おどけたりはしゃいだりするのは、ホロコーストという人類の悪を突きつけられたときの一種の防衛機制だろう。ガイドたちの説明は理路整然としていて、この地でなにがおこったかを「第三者」の目線からしっかり解説してくれるが、その早口の解説を聞く観光客は、そこで受け取ってしまったものをどう処理すればよいのか困っているように見えた。情報として処理してしまえないなにかを彼らは感じ取っているのではないか。でも、その感覚をどうすればよいのかわからないので、みなで似通った反応をしてやりすごそうとしている。だから、この映画の中盤で、周囲の音を鎮まらせてカメラが捉える、画面外のある対象を見つめる人たちの真剣にみえる顔と、ツアー途中で照れたように笑う人たちの顔は表裏一体のもので、退屈になってしまいそうな時間をメリハリつけてやりすごすための一連の身振りなのだ。過去のすさまじい記憶をすんなりと受け取ってしまえること、またはそれを退屈に過ごしてしまえることに気づいて、当時から遠く離れた時点にいる彼らはそれをどう扱えばいいのかわからない。それでも、記憶を辿るルートは非の打ち所がなく定められていて、進むしかない。そのうち彼らは疲弊して、ゾンビのごとく行進する集団になっていく。
 これはポール・リクールがいうような記憶の義務なのかもしれない。みなで記憶しなければならない、考えなければならないという倫理的な義務感が先走ってしまって、どう記憶すればよいのか、なぜ記憶しなければならないのかを考えるひまがない。この義務感が記憶をめぐる群衆=観光客を形成させる動力源のひとつだろう。または、そういった義務感や使命感と対にある、「なんとなく来た」という気まぐれな感覚もその地に人の足を運ばせるきっかけになる。そうした義務感と気まぐれのあいだに立って、第三者なりに記憶と向き合う姿勢こそがいま問われているはずだが、その答えのありかをこの映画は示さない。この映画に出てくる人たちがほんとうのところなにを考えているかはわからないが、たとえばもの思いにふける人物を長回しで映すなりして、模範的な記憶の考え方を提示することをこの映画は選ばなかった。そのかわりに、この地点からはじめる以外にはないんだということだけを強く映している。想像を絶するほどの過酷な記憶が、当たり前のように整理され、受け取られていくこと。その状況にみなが知らず知らずのうちに退屈し、疲弊していること。世界中のあらゆる場所でおこっている歴史認識の論争の裏にはこんな事態が進行している。これは歴史や記憶の風化というよりも慣れの問題だろう。ホロコーストの記憶の問題は、表象の適切さや不可能性といったテーマをこえて、そうした局面に入っている。

2019年12月9日月曜日

サンティアゴ・アルバレス『今!』(1964)


 もう何十回と見ている作品。レナ・ホーンの歌の歌詞もわかってるし、だいたいどんな写真がそれに合わせてコラージュされるかもわかってるんだけど、それでも見るたびにパワーをもらう。この映画にはアルバレス映画の真髄が凝縮していると思う。写真の操り方は、この映画でだいたい完成している。アニメーション的に、静止した写真を組み合わせて動きを引き出したり、ぐぐっとズームして一枚の写真のなかでフレーミングを重ねて物語をつくりだしてしまう。たぶんアルバレスはこの映画で新しい映像とか素材はなにも使ってない。既存の他人の素材を自らのアジテーションに転化させるその大胆さがすごいし、それでもそこに映っている人々の声を捻じ曲げたり搾取したりはしないのがいい。米国の権力者たちは徹底して対象化して弄ぶけど、弾圧される黒人たちの声(写真だから聞こえない)はレナ・ホーンの歌声にかき消されることがなく、彼女とともに共鳴してさらに増幅する。

 怒りや憎しみ、希望といったいろんな感情がごちゃまぜになったインパクトを、この映画からはもろに受ける。それはアルバレスの感情であり、レナ・ホーンの感情であり、名も知れない黒人たちの感情であり、また彼らに連帯する無数の者たちの感情である。そうやってこの映画の情動はどんどん伝染して、大きくなる。歌詞には「この歌のメッセージはとことん明快」とあって、確かにそうなんだけど、それでもこの映画がいつも新鮮なのは、無数の人々の情動が不定形のままでうずまいているからだと思う。プロパガンダ的な固定された情報としての明快さではなくて、時代や国を飛び越えて変化していく感情の源がある。黒人たちの闘いは今もぜんぜん終わらないし、彼らと同じ気持ちを抱いた人たちの闘いが続くかぎり、この映画はこれからもずっと新しいままだろう。いつだって彼らといっしょに「NOW!」と叫んで闘いをはじめられる。

2019年12月7日土曜日

「生誕100年記念 サンティアゴ・アルバレス特集」『ハリケーン』(1963)

2019年12月11日~14日にアテネ・フランセ文化センターで「生誕100年記念 サンティアゴ・アルバレス特集」が開催される。14日にはシンポジウムもあるので、その準備として、各作品についてここで覚書のようなものを残しておきたい。年代順に書いていく。

『ハリケーン』(1963)
 アルバレスを世界的に有名にした最初の作品。巨大ハリケーン「フローラ」がキューバを襲う過程を20分ばかりでまとめている。ICAICやニュース班を中心に、たくさんのカメラマンがクレジットされていて、各々の撮った膨大な量の映像が組み合わされてて、それをこの尺にまとめあげた編集のうまさが際立つ。編集しているのはマリオ・ゴンサレスという人。1カットごとの長さとか、つなぎとかがとてもスムーズであり、情報を的確に伝えている。あと、機械のがたがたと作動する音や、作物をザルにかけるときのザーとした音、そして人々の歩みや船や車の移動などが組み合わさってとてもリズミカルな映画になっている。そんな映画前半は軽快な音楽にのせてキューバの農業の様子が映されるのだが、その滑らかな流れは突然フリーズした画面と、無音の沈黙によって遮られ、そこからフローラの襲来がはじまる。

 フローラがやってきてからは、水の音と、風の音が強く鳴っていて、音楽もドラムを中心にして不穏な雰囲気のものになる。被害にあった住民たちを救出に行くときのヘリの音も強く印象に残る。映画の大半はこのハリケーンの被害と、それに苦しむ人たちの様子、彼らの救出作戦が描かれるのだけれど、主要な被写体となるような特定の人物はおらず、あくまで人々は集団的なものとして示される。中心となりそうな人や、英雄的活躍をする人もいない。フィデル・カストロも映るのだけれど、ちらっと出てくるだけで、ことさらにその活躍を強調したりはしていない。

 むしろ主役となるのは、カメラのほうをじっと見つめる無数のキューバ人たちだろう。彼らのまなざしは深く、忘れがたいものがある。集団的ではあるんだけど、それで個人の特徴が消し去られるということでもなく、それぞれのショットに映る人々は皆固有の表情や動作を示している。人間や動物の死体などショッキングなシーンもけっこうあり、ハリケーンの恐ろしさをまじまじと伝えるのだが、そうした困難に立ち向かう人々の強さや苦しみを、ナレーションに託して語らせてしまうのではなく、映像と音のリズムで描ききったことがこの映画のすごさだと思う。とくに最後の幼い子供のじっと見つめる視線は、固定的なメッセージをこえて、不安で移り気な目で革命をじっと見守るような、優しさと強さと希望と不安がいろいろ混ざったような複雑なものだった。

2019年6月26日水曜日

『幸せな人生からの拾遺集』『グリーンポイントからの手紙』ジョナス・メカス

 あらすじを読むだけだと、これまで使われなかった映像の寄せ集めのようにもみえる『幸せな人生からの拾遺集』は、とんでもなく巧みで緻密な映画だった。『リトアニアへの旅の追憶』と同じように、メカスのプライベートな映像がどんどんモンタージュされ、そこに15歳の少女ダイアンがメカス宛に出した手紙の文章が重ねられる。印象的な言葉をひとつあげるなら、「わたしが見ること、どこかにいて心のためになにかをすることはまるっきりわたしにかかっている」。家族の団欒、食事、宴会、ピクニック。メカスの映像はすべて極個人的なものだが、そこに他人の少女のこれまた内省的な言葉が付け加わることで、言葉と映像のあいだに緊張関係が生まれる。メカスと少女、複数の「わたし」が垣間見えてくる。どれがメカスの言葉で、どれが彼女の言葉であるかは曖昧だけど、映像を補足するような役割ではなく、言葉それ自体として自立していて、そのことでこの映画が彼女とメカスの共同制作のような気がしてくる。見えない彼女のイメージも見えるような。
 メカスは「記憶のことなんて気にしない けれど自分の目で見たり キャメラで記録したものが好きだ」とか「ただのイメージだ」と言っていて、「わたし」とか「記憶」という問題に対して、ずいぶん冷静であることがわかる。メカスは安易なノスタルジーや記憶へのセンチメンタリズムに陥ることが決してない。自分の「ただのイメージ」をより詳細に記録しようとしている。そして、ひとつのイメージにこだわらず、次へ次へと映像を揺らし送っていく。観客はメカスのカメラが観た純粋なイメージをただひたすらに膨大に享受するだろう。そうして時間を刻むうちに、共感や感情移入とは別の回路をつうじて、自分のイメージが今見ているメカスのそれと交差していく。今はもう覚えていない「わたし」の潜勢的なイメージの数々があるだろうことを実感し、やがてその中からいくつかのイメージが映画によって思い起こされる。そのイメージはつかの間ですぐに忘れてしまうのだが、そうした無数のプライベートなイメージの集積場として、誰しもの記憶を解凍し、一瞬でも生き生きとさせる場として、この映画は優れて公共的であると思った。
 『グリーンポイントからの手紙』は正直最初は退屈するだろうと思ったが、メカスの人柄と想像力が、いつもよりも気楽で気の抜けたビデオ映像の魅力もあいまって爆発していた。ゆで卵ひとつで社会を語ってしまいながら、さみしそうにライク・ア・ローリング・ストーンを熱唱する彼の涙が忘れられない。いい奴なんだろうなあと思った。