先日、鵠沼海岸のシネコヤでビクトル・エリセの映画についてお話しする機会があった。『ミツバチのささやき』をシネ・ヴィヴァン六本木で見た往年のファンや、『エル・スール』の冒頭が好きでたまらないんです!と熱弁する小学5年生(すごい……)といったさまざまな参加者とともに、あっというまに時間が過ぎた。この会のために準備していたけど時間がなくてできなかった話や、みなさんとお話しするなかで気づいたことがいくつかあるので、当日話したことも含めて『瞳をとじて』について文章を残しておきたい。
『瞳をとじて』に対して私を含む多くの観客は、『ミツバチのささやき』や『エル・スール』の世界をなんとなく勝手に期待していたと思う。作中の家に差して特異な時空を立ち上げる強烈な光線、目の前に広がる大地や並木道を駆ける少女たちを捉えるカメラの運動、スペイン内戦という過酷な過去を抱えた沈黙。これらに加えてエリセが日本に紹介された当時のミニシアターブームの記憶や、寡作なフィルモグラフィともあいまって、エリセの映画は神秘的な雰囲気を纏い、それぞれの観客自身のごく親密な記憶と結びついてきた(『瞳をとじて』の公開にあわせて、Twitterには「#わたしとエリセ」というハッシュタグがあって、各々がエリセの映画とどう出会ったかが語られていた)。
けれどそうしたフィルム時代のエリセの映画に漂う「重さ」や「神聖さ」は、『瞳をとじて』にはあまり感じない。パキパキのデジタル映像で大部分が撮影されているこの映画では、これまでのように記憶や過去が重要なテーマとして取り上げられるが、それらはとっくに手の届かないところに過ぎ去ったものとして、ほぼ諦めがついたような態度で語られる。この映画で印象的なのは、人と人が出会って話をする、それを切り返しでひたすら撮っている、ということ。冒頭の劇中映画から、とにかく1対1でずっと話をしている。それをカメラは執拗なまでの切り返しーー時々異様なクロースアップがあるーーで追っていく。失踪した映画俳優についての物語なので、話されているのは大体昔の話だ。ひとつひとつのシーンが終わるたびに瞳をとじるように画面はフェードアウトしていき、浮かび上がった時間は再び遠い暗闇に沈んでいく。
かつてのエリセの映画の少女たちは、父の記憶、親世代のスペインの記憶を、意識的かつ無意識的に追い求めていた。そこにあった少女の視線を介したまだ暖かみの残るやさしい記憶の手触りよりも、この映画には父たち、男たちの乾いた視点を感じる。エリセの映画でこれまで最も神秘化されて象徴化されてきたのは父親たちだったのかもしれないーー強権的なフランコ独裁の象徴として、または破れた共和国派の男たちの影として。『瞳をとじて』では、その父親たちーーミゲルとフリオーーがこれまでの語らずにして語る意味深な態度を捨てて、裸で過去と向き合おうとしている。
そのときにまず浮き彫りになるのは、彼らの孤独、または居場所のなさだろう。主人公のミゲルは息子を亡くしていて、あまり人付き合いがよさそうには見えないし、映画監督としても作家としても長らく成果を発表できていない。彼は劇中で定まった場所にとどまらず、つねにあちこちを移動している。私がこの映画で一番好きな場面はミゲルが昔の恋人ロラと再会するところで、ここでの二人の会話が忘れ難い。ひとしきり昔の話をしたあとに、ミゲルは、かつて探していた「ほんとうの居場所」は見つかったかとロラにきく。彼女は「いいえ、見つからなかった。あなたは?」と返して、ミゲルは「僕も見つからなかった」と答える。ロラはアメリカ人のパートナーと結婚してその後離婚し、今はアルゼンチンに暮らしている。彼らはほんとうの居場所や確固たるアイデンディディを見つけられずに彷徨っている。
フリオこそアイデンティティが不確かな人物だろう。彼は記憶を喪失しているし、いまはフリオではなくガルデル(タンゴ歌手の巨匠の名前)と呼ばれている。そういえばミゲルは普段暮らしている海辺のコミュニティではマイクと呼ばれているし、そこに住む彼の友人は本名よりも「デカ足」のあだ名を好んでいる。彼らの名前はひとつではなくていくつかあって、それはアイデンティティが複数あることを示している。
この映画に出てくるあらゆるものたちが「居場所のなさ」を引き受けている。劇中映画で娘を探すよう依頼するミスター・レヴィは自分を「セファルディ」だというが、それは1492年のレコンキスタ以降、スペインを追放されてアフリカやアジアへ散らばったディアスポラのユダヤ人たちのことだ。そうした流浪の民であるセファルディの父親が、かつて上海で別れた娘と再会を望むというのだから国籍的にはさらに入り組んでいる。ユダヤ人でいうと、主人公のフリオが作中、海辺の家で翻訳している本は、Michał Waszyńskiという実在のユダヤ系映画監督・プロデューサーについての本で、この人物はウクライナに生まれたのち、第二次大戦の前にポーランドでカルト的な映画を撮り、その後イタリアやスペインを転々としながら監督をしたりアンソニー・マンの映画のプロデューサーをしたりしている。このように『瞳をとじて』に集う人物たちはみな定まったところにいることができなくて、「ほんとうの居場所」を探している。
なんらかの自己を喪失して生きてきた「亡命者たち」の輪のなかには、エリセ自身もいる。前田英樹が指摘したように、エリセが撮ってきた長編映画(『ミツバチ』『エル・スール』『マルメロの陽光』)は「どれもスーパー・インポーズによる時間の特定化」(「唯一の時間について」『映画=イマージュの秘蹟』p.229)から始まる。これは『瞳をとじて』でも例外ではない。今作の場合は、映画の冒頭の「1947年 フランス郊外 トリスト・ル・ロワ」という劇中映画のインポーズがあって、その劇中映画の顛末(主役の失踪、映画の挫折)がエリセ自身の声によるヴォイスオーヴァーによって語られた後、現代のパートで「2012年秋 マドリード」というインポーズが再び出る。2012年に現代の舞台を設定した理由についてエリセは、「登場人物たちの人生がフランコ時代と何らかの関わりがあったことを示すため」(Caimán Cuadernos de Cine, 2023.09, p.14)と言っている。『瞳をとじて』には、1947年から2012年にかけて宙吊りにされたフィクション映画の時間と現実のスペインの歴史、そしてエリセ自身の人生が重なっているといえるだろうか。パンフレットやいろいろな記事(これが参考になる:https://www.thecinema.jp/post/article_letters/hJY9i)で書かれているとおり、『瞳をとじて』には今までのエリセが送り出してきた映画と、実現できなかった映画の企画が何重にも折り重なっていて、絵画の下描きのようにうっすらと映画の背後に透けて見える。これまでのエリセの映画では、「2つの歴史」(スペイン現代史と映画史)が密接に絡まりながら物語を支えていたと思うのだが、『瞳をとじて』にはそれに加えてエリセの個人的な人生・映画史という3つ目の歴史がはっきりとあらわれている。映画後半の誰もが唖然とする「Soy Ana」(「私はアナよ」)というセリフに顕著だけど、こういうふうに映画を撮れる人はいまの世界でエリセしかいないんじゃないだろうか。
スペインという周縁で孤独に映画史と対話しながら映画を作ってきたエリセは、自らを「内的な亡命者」と呼んでいる。詳しくはエリセ研究者の三宅隆司さんの研究(『シネアスタ・ビクトル・エリセ ――秘密の話し相手との対話』)を参考にしてほしいけど、「内的な亡命者」とは、国外に出ずとも国内で居場所を見つけられず、実人生においても社会においても孤立を感じている人を指す。エリセは最近になって行われたペドロ・コスタやパウロ・ブランコとの対談(https://dokushojin.net/dokushojin/411/)で、ブニュエルやオリヴェイラの境遇を語りながら、自分の世代はスペインの社会や歴史に主体的に働きかけられず、自らを孤児のように感じているという。ここでエリセがいう孤独とは、スペインの社会的・歴史的なものであり、同時に映画文化や映画史における立場でもある。この対談だけでなく『マルメロの陽光』以降さまざまなところでエリセが発言しているように、フィルムの時代が終わり誰もがデジタルで映画を撮り、それをテレビやパソコン、スマートフォンで見るようになって、かつて映画館で時と場を共有していた観客の共同体は消滅した。エリセはそうしたデジタル映画を「オーディオ・ヴィジュアル」と呼んで、かつての「映画」とは区別している。コスタとの対談でエリセは「自分の共同体を見つけられていない人々」について語っているが、昨今の映画文化における共同体の喪失や孤独についてエリセは『瞳をとじて』で強く意識している。
だからこそ、記憶をなくしたフリオが自らの過去を思い出すことができるのかという映画終盤の物語の争点は、失われた映画文化や共同体、つまりかつてあったかもしれない「ほんとうの居場所」を取り戻すことができるのかという大きな問いとつながってくる。私が感動したのは、この問いに対して『瞳をとじて』が、過去の記憶や共同体をそのままに復元したり懐かしんではいないことだった。フリオがいる病院で医者のベナビデスがミゲルにかける言葉が大事だ。ベナビデスは、記憶はたしかに大切だが、人は記憶だけでできてはいない、感情(sentimiento)や感性(sensibilidad)が不可欠であり、文学や映画はそれらを喚起し、人の魂を目覚めさせることができるという。この言葉を聞いたからこそ、ミゲルは終盤で未完の映画を見せることによって、フリオの魂を呼び覚まそうとする。ここでは映画がかつての記憶をそのまま取り戻せるかというよりも、現在のフリオを変えることができるか、という点に懸けられている。さらにフリオだけでなく、ここではミゲルの現在も変わろうとしている。映画館の所定の座席に関係者たちを座らせようとステージから指示する彼の姿は、さながら演出を行う映画監督である。映画の終盤になって明らかに彼は生き生きとしている。
この映画の結末については、フリオは結局自らを思い出したのかそうでないのかという点で議論されると思うけれど、私はどちらでもよいと思う。重要なのは、記憶そのものではなくて、それを思い浮かべたいと思う今ここの感情や意志であり、フリオが瞳をとじている時点で、その願いは達成されているからだ。かつて未完に終わった映画は、たしかにフリオを突き動かしている。「思い出す」という過去と現在のはざまをさまよう行為を映画がたしかに導いている。思えば、ミゲルとロラが会う場面、かつて好きだった歌を唄ってくれと頼まれたロラは、一度ピアノを弾き始めるもそれは間違いで、次の曲でようやくほんとうの曲と出会うことができる。ここで間違えてしまうのはコミカルだが、そのぶん思い出そうとするロラの所作に注目することができる。彼が好きだった唄はなんだったろうかと暗い記憶のなかをたぐりよせるように思考をめぐらせること、それを唄ってふたりで聴くこと。ふたりの過去そのものよりも、忘れてしまいそうになりながらも思い出そうとしているいまここのふたりに私は心を動かされた。『瞳をとじて』は単なる回想の映画ではなくて、もう二度と立ち戻ることのできない過去を、現在において語り直し、作り直していく映画なのだと思う。
もう長く書いてしまったのだけれど、最後にひとつだけ。『瞳をとじて』の「思い出す」行為で大事なのは、それをひとりではなくて誰かと共に行おうとしていることではないだろうか。『エル・スール』で父親のことを想い回想の主体となっているのはエストレーリャだった。映画館で映画を見たのは父親アグスティンだけだった。『ミツバチのささやき』で映画に突き動かされたのはアナだけだった。『瞳をとじて』の劇中劇では、ほんとうの父親レヴィが死んだあと、代理の父親のようにフリオが少女に寄り添い、ともにこちら側を見つめる。それを客席にいるフリオは娘のアナと一緒に見つめる。かつてはばらばらで一方的だった父と娘の想起の関係や映画体験が、ここでは共同的に再演されている。そして、それを見つめて受け止めてくれるミゲルやほかの観客がいる。エリセや『瞳をとじて』の人々が探していた「ほんとうの居場所」はここに一瞬成立したと思った。それはどこかに具体的に恒久的に存在するものではなくて、偶然その場に集って映画に突き動かされた人たちの間に生じる刹那的な共同体のようなものなのかもしれない。『瞳をとじて』に映るエリセのノスタルジーや映画愛、自己オマージュを時代錯誤だったり閉鎖的にみる人はいるだろうし、それはたしかにそうなのかもしれないとも思う。けれども私は、かつての映画の終わりを深刻すぎるほどに受け止めたエリセが、それでもなお今映画を撮って、映画からこそ生まれる感情や感性、経験、記憶を分かち合うための共同体の可能性を示してくれたことの意味をずっと考えている。『瞳をとじて』は集大成のような映画だけれど、決してずっと後ろ向きではなくて、これから先を感じさせてくれる映画だった。それは映画の始めと最後に置かれた、過去を見る顔と未来を見る顔があわさったヤヌス像にもあらわれている。これからのエリセの映画はきっとあるだろうし、それが楽しみだ。