2022年9月24日土曜日

うずうずチリ・サンティアゴ生活記③:サンティアゴの墓地、記憶・人権ミュージアム、クラブ

 9月9日から16日まで。この前から新聞の社会面みたいな内容が続くが、このころのチリはそうならざるをえないところがある。
  
 9月11日の寒い朝、先生と一緒にサンティアゴの墓地にあるアジェンデ大統領の墓へ行った。先生は毎年この日はここに来るらしい。車で向かう途中、墓地の近くにある市場で花を買い、多磨霊園のように広い墓地を歩いて、アジェンデの墓へ行く。この日はクーデターから49年目で、私たちが来たときはまだ花は少なかったが、帰るときにそこらじゅうの道路が閉鎖されていたから警察に訊くと、大勢のデモ参加者がアジェンデの墓をめざして進んできているらしい。
 この墓地は広々としているが、入り口のそばにあるのは立派なお堂のような墓で、奥に行くほど、壁一面にところぜましと並ぶ墓だったり、地面の狭いスペースにおさまる墓だったりと違いがはっきりしてくる。裕福な人とそうでない人とでお墓の作りが違う。一番奥のほうには、独裁時代に誘拐・殺害され、身元が分からなくなった人々の墓がある。石に刻まれた没年が1974年など同じ年・期間である墓もたくさんあったが、それはその時期にたくさん人々が捕まり、殺されたことの証だ。いつも日本で墓参りをするときは自分の家族の墓に行く感覚だけど、ここにいると、ひとりひとりの具体的な死者もそうだが、混沌として歪な記憶や歴史の塊みたいなものに包まれている気がする。同じ墓地のなかにあっても、それぞれの墓が発する声は統一されない。喪にも格差がある。死んでも思い出してもらえない人や、そもそも死んだのが誰であるのかすらわからない人がここにいることは忘れたくない。

 墓参りの前日は記憶・人権ミュージアム(https://web.museodelamemoria.cl/)へ行った。この日は、独裁時代の拷問を生き延びた人や行方不明者の家族と、拷問を行ったり指示した軍人の子孫が対話をするという、自分が聞いていいのか迷うデリケートな会があった。みな自分の非常にパーソナルな体験を話すので、痛切で時がとまるような語りの時間が流れる(予定時間を超えて3時間半くらいのイベントになった)。また、とくに加害者の子どもたちは、親族が人権侵害の加担者であったことによる様々な苦悩を泣きながらなんとか語ることによって、自分の複雑な立場を認め、受け入れようとしていた。「私たちは加害者でも被害者でもない、でも被害を受けた人とともに闘うことはできる」という言葉は力強かった。最後は両サイドによる、過去の加害の「非処罰」(impunidad)を許さず社会をよりよくしていこうという宣言が、会場の人々と繊細な言葉の選択をめぐって(たとえば、「赦し」(perdón)という概念はとても個人的なものなのでほかの表現に変えてほしい、など)議論しながら発表された。やはりここでも先日の国民投票の話が苦しそうに抱えられていたが、分断をまえにこうした活動を行い過去に耳をすませられることが、チリの人々がずっと記憶と向き合って運動を続けてきたことの成果なのだと思う。

 ほかには、サンティアゴのクラブに初めて行った。みんな大変真剣に踊っていた。私は去年たくさん踊ったので、前よりもクラブは楽しい。でも疲れた。みんなにノリよくあわせられるけど、そこまでパーティーが好きではなさそうな一緒に行った人(もう名前を忘れてしまった)が、「俺ははやくうちで寝たいんだよ、なんでこんなとこで踊ってるんだよ」とふと我にかえって泣きそうにつぶやいていたのが可愛かった。

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